*『寛政譜』では、師胤を抹消して弟の胤基が当主を引継いでいます。
胤氏の嫡子、官途名は五郎左衛門尉。元亭元年(一三二一)「相馬重胤申状案」/『相馬文書』によれば、「今年十月、相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一打渡之刻、長崎思元拝領」とあり、師胤は濫訴によって所領三分一を幕府に取り上げられ、御内人(みうちびと)の長崎思元しげんの手に渡っています。師胤は所領三分の一を失い、『寛政譜』では抹消されて、当主は弟の胤基に引き継がれています。しかし、当事者なので、ここでは六代目の当主として扱いします。
師胤の罪科は、下総相馬氏と奥州相馬氏との土地争いに起因します。
三代相馬胤綱の後家相馬尼は、長子の胤継を勘当し(相馬胤綱子孫系図」)、当腹嫡子である胤村が、相馬家の当主になりました。
四代胤村の死後も、後家阿蓮(あれん)の家長権代行で、当腹嫡子の彦次郎師胤に多くの所領配分を要求しています(「某嘆願状」/『相馬文書』)。この嘆願状は、一説に「相馬胤村譲状案」と称されるように、胤村死後、後家阿蓮と当腹嫡子の師胤との所領配分の要求書と見做されます。つまり、相馬家は二代に亘って後家の自分勝手で、当腹嫡子である胤村及びその子彦次郎師胤と、惣領家で先妻の子と思われる胤氏及びその子五郎左衛門尉師胤との所領争いを招き、挙句の果て、胤氏・師胤親子の越訴(おっそ)が、すなわち濫訴(らんそ)と認定され、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」違反として、師胤の所領三分の一が没収されました。
この内紛を契機に、下総相馬氏は没落を早め、そして、後家阿蓮尼一族は奥州へ移住します。
ところで、『藤代町史』/『茨城県神社誌』によれば、藤代にある「相馬神社」(もと八坂神社)は、相馬氏により、元亨元年(一三二一)六月に創建されたとしています。時代から考えますと、五郎左衛門尉師胤が該当します。この社地は、小貝川右岸で相馬御厨の範囲内ですが、下総国と常陸国の境目に当ります。師胤は己の領地を主張するため、神社を寄進したのでしょうか。
この頃になると、鎌倉武士の忠誠心を表した「いざ鎌倉」の気風はとうに失われ、幕府得宗(とくそう)家・内管領(うちかんれい)・御内人(みうちびと)の専横に対しての不満や反感が漲(みなぎ)ってきました。御家人の領地は分割相続の繰り返しで細分化し、貨幣経済の進展による借金や親族間での土地・金銭をめぐる争い事や訴訟が増え様々な面での困窮が御家人たちを疲弊させ苦しめていました。
師胤の処分から十二年後の元弘三年(一三三三)五月二十二日、新田義貞の進攻により鎌倉幕府は滅亡しました。
新田義貞が五月八日に生品明(いくしな)神社で旗揚げした時は、僅か一五〇騎程でしたが、関東各地から援軍がぞくぞくと二十万騎も集まり十四日間程の戦いで鎌倉幕府は約一五〇年の幕を閉じます(『太平記』)。
下総相馬氏は新田義貞軍に参陣し、奥州相馬氏は足利尊氏軍に与して、南北朝戦争に巻き込まれて行きます。