次に同行者ですが、『奥相志』に、「重胤公に従う陪扈(ばいご)の同族及び世臣、岡田胤盛・泉胤康・堀内常清・伊奈有村・西胤利・大非山(おおひさ)朝胤・文間(もんま)胤直・木幡(こわた)範清・同盛清・同胤清・同定清・同兼清・須江(すえ)時胤・青田祐胤・茅原(ちはら)越中・猿島豊前・牛来(ごらい)玄蕃・北・般若・遠藤・今野・薩間(さつま)・筒戸・増尾・岡部・伏見氏など其の他記録を欠くも、凡て八十三騎なりと云う」。そのほか、僧侶・神主・百姓・職人などが従ったといいます。文間胤直は、第五代胤氏の弟胤家の子です。文間から門馬と姓を替えたのは、文間が蛟蝄(みつち)の神名そのものであり、遠慮したと思われます。木幡氏の先祖は将門の孫信田文国の忠臣浮嶋太夫(うきしまだゆう)で、のち、木幡に改名した由、浮嶋太夫は、平将門に仕えたという伝承があります。こうして見ると、相馬郡内外の村名を苗字にした人が意外に多いです。泉(柏市泉)・文間(利根町文間)・須江(千葉ノ士)・青田(柏市青田)・猿島坂東市・牛来(牛久市)・薩間(鎌ヶ谷市佐津間)・筒戸(つくばみらい市筒戸)・増尾(柏市増尾)などです。この内で、胤氏弟の胤顕(たねあき)の子岡田胤盛(たねもり)は、先妻組の下総相馬氏系の筈ですが、移住組に入っています。やはり、相馬郡の泉村より奥州の所領が大事なのでしょうか。ちなみに行方郡岡田村から苗字としています。
これでは、下総に残った相馬氏は、数える程しか居ないことになります。ただし、岡田清一氏の論文によりますと、相馬有胤(ありたね)が、重胤の移住に先駆けて奥州へ移住していた可能性を指摘しております。南北朝争乱時、重胤は北朝方ですが、有胤の子胤平(たねひら)はなぜか南朝方で活躍しています。挙句の果てに小高城まで攻撃しています。一族間で何かあったのでしょうか?有胤系相馬氏の記録として残されていませんので、動向は不明ですが、奥州相馬氏は一族纏まって奥州移住を否定するのは、都合が悪かったと思われます。奥州移住時の数の優位性から、近世、奥州相馬氏は自らを嫡流家として、下総相馬氏を支流と呼んでいます。