奥州相馬氏の居館は、初め行方郡小鶴庄太田之里(南相馬市原町区中太田)に館を構え、その後、小高村の堀之内館(南相馬市小高区小高)へ移ったとされていますが、最近の研究では、最初から堀之内館へ下向したとされています。現在の小高城跡は、小高神社が祀られています。守谷城と違い、小高城の築城時期は明解です。建武三年(一三三六)二月の「相馬重胤軍勢催促状写」/『相馬岡田雑文書』に、重胤は弟光胤みつたねに対し、「奥州行方郡内小高堀内に城郭を構え、兵糧米を備え、敵と成る一族を味方に誘い、たとえ尊氏軍が劣勢と聞いても二心有るべからず」と定書を与えて帰国させています。この古文書で小高城の築城年が判ります。この定書が、重胤の遺言(片瀬川で戦死)になってしまいました。
奥州相馬氏は、その後、牛越城(南相馬市牛越)を経て小高城へ戻り、慶長十六年(一六一一)中村城(相馬市中村)へ移り、近世中村藩六万石が成立しました。
小高城址(南相馬市小高区小高)