七代相馬胤基(たねもと)(生没年不詳)

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 『寛政譜』では、胤氏の嫡子師胤が抹消され、弟の胤基が家を継ぐ。胤基の官途名は次郎兵衛尉・左衛門尉。

 

 元弘元年(一三三一)四月、後醍醐天皇の鎌倉倒幕計画は露見し、八月、天皇は笠置寺(京都府笠置町)に移って倒幕の兵を募ります。これに対し、幕府軍は二十万余騎の軍勢を組織し、京へ向かった。と『太平記』に記されていますが、その軍勢の中に、「相馬右衛門次郎」が加わっています。実名は不明です。この次郎は、そうそうたる大物の中に、その名があるので、相馬氏庶流とは考えられませんが、かといって、嫡流家にも該当者はいません。常陸国の南北朝動乱時、下総相馬氏の動向は皆目判りません。守谷市近郊では、北畠親房(ちかふさ)が陸奥国の再編を図るため、東国へ下向、小田城に居城して、南朝方を鼓舞していました。さらに、春日顕国が応援に駆け付け、動乱は最盛期を迎えていました。そんな中、北朝の足利尊氏は、後醍醐天皇の陸奥国強化に対し、弟の直義(ただよし)を八歳の成良(なりよし)親王と共に鎌倉へ下向させます。元弘四年(一三三四)の「関東結番(けちばん)交名注文」/『建武年間記』に、「相馬小次郎高胤」の名がありますが、「小次郎」は下総相馬氏の通字ですが、誰だかは不明です。
 最大の謎の人物は、『太平記』にある「相馬四郎左衛門忠重」です。『太平記』「山攻事付日吉神託事」建武三年(一三三六)六月十七日条に、下総国の住人相馬四郎左衛門忠重(ただしげ)が、比叡山へ避難した後醍醐天皇を守るべく、松尾坂で守衛し、強弓でもって足利方を寄せ付けませんでした。ここで、相馬忠重が記載されている相馬系図を見てみますと次の四系図が確認できます。

(一)「相馬系図」/『続群書類従第六輯上』


(二)『松羅館千葉系図』


(三)『相馬当家系図』(「広瀬晉一氏所蔵」・「大阪市在住の小田原藩士の子孫相馬氏所蔵」)


(四)『千葉大系図』

(四)だけ、忠重を当主扱いしています。(二)・(三)・(四)の忠重は、『太平記』の記事を採り入れています。(一)と(二)は、胤基の弟胤重を、射手也とあるので、『太平記』のモデルではないでしょうか。忠重の名は『寛政譜』に無く、実在は疑わしくなります。
やはり、相馬四郎左衛門忠重は年代からも「胤重(たねしげ)」ではないかと思われます。
 忠重は庶家扱いが妥当です。忠重は本家筋の千葉貞胤と行動を共にし、『千葉大系図』によりますと、千葉貞胤の注記に「元弘二年(一三三二)三月、後醍醐天皇隠岐国より還幸、貞胤兵を卒し之を警護す、同三年、新田義貞鎌倉を攻める、貞胤軍に属し奮戦軍功に抽んでて恩賞を賜る、爾後、義貞と足利尊氏戦う、貞胤出軍多々、建武三年(一三三六)春宮(恒良(つねなが)親王カ)北国へ行啓、貞胤之に供奉す、越前に於いて木目峠の前で雪道に迷う、足利高経(斯波高経(しばたかつね))の陣に至る、既に自殺するを欲す、高経蓋し礼を尽くし、丁寧な語で武家らしく扱った、貞胤は諸卒の命を助ける為、以て尊氏の麾下に応じる、もうひとり忠重の注記は「勇力超人、元弘・建武の戦い官軍に属し、戦功莫大也、延元元年(一三三六)十月、千葉介貞胤、不慮に尊氏卿に随う、故、忠重も亦之に応ず、勇戦に励む、」とあります。後醍醐の命で、義貞の北陸行きは、準備不足のまま進められ、山超えの途中雪に降られる恐れがあったが、蓑(みの)は千人に対し八百、雪沓(ゆきくつ)は七百か集まらなかった。そこで、全員に藁(わら)一束持たせることにした(新田次郎著『新田義貞』)。
 この場面、『太平記』に「北国下向凍死(こごえじに)の事」と題して詳述されています。「義貞朝臣七千騎にて海津(かいづ)に着き給ふに、越前国の守護足利尾張守高経大勢にてさし塞ぎぬと聞えしかば、これより路をかえて、木目峠を超えられける。河野・土居(どい)・得能(とくのう)は二百余騎にて後陣に打ちけるが、前陣の勢に追いおくれ。行くべき道を失ひて、塩津の北に下り居たりけるを、佐々木一族が取り籠めて討たんとしける間、相懸かりに懸けて、皆さし違へんと死にける。千葉介貞胤五百余騎にて打ちけるが、東西暮れて、降る雪に道を踏み迷い離れければ、一所に集まりて自害せんとしけるを見て、足利尾張守高経の許より使いを立てて、《弓矢の道はこれまでにて候へ。》と慇懃に遣はされければ、貞胤心ならずして降参して、尾張守の手に属しける。」
 この斯波高経の言葉が、貞胤と忠重を助け、大袈裟にいえば下総相馬氏の命運を決めています。忠重は、始め南朝でしたが、のちに北朝に投降していますので、南朝方の駒城(下妻市黒駒)・関城(筑西市関館)・大宝(だいほう)城(下妻市大宝)・小田城(つくば市小田)などが落城する中、常陸合戦を無傷で乗り切ったのでしょう。忠重(胤重)は、周囲に南朝方の城ばかりの中、ひとり家名存続のため孤軍奮闘したことは特筆ものです。
ここで、『寛政譜』を見てみます。

 

 この南北朝内乱に際して、下総相馬氏の庶流が南朝方に属していたとする「斯波家長奉書」/『相馬文書』を掲げます。

 

 鎌倉に於いて関東・奥州を管轄していた斯(しば)波家長が、相馬孫五郎親胤のこれまでの働きに対し、将軍家(尊氏)に推挙した結果、闕所である六ケ村が尊氏から親胤に与えられました。この六ケ村は、旧領主である相馬氏が南朝方に属したため、北朝方に没収されて闕所になっていたと思われます。これら六ケ村が北朝方の手に渡ったとしたなら、守谷も下総相馬氏も無事だったとは思えませんが、相馬宗家は北朝方へ鞍替えしたとしたら、辻褄が合います。