応永二十二年(一四一五)五月、時の管領犬縣(いぬかけ)上杉禅秀は管領職を辞任、この事件の裏には、上杉家内部の抗争がありました。
実際、この後、管領職は山内(やまのうち)上杉氏が独占します。京にあった室町四代将軍義持(よしもち)の異母弟義嗣(よしつぐ)は、鎌倉の不穏な空気を聞き、密かに禅秀と持氏の叔父満隆(みつたか)に連絡を取り、ここに、将軍弟・公方叔父・前管領、三者の野望を秘めた密約が成ります。
同二十三年(一四一六)十月、禅秀は兵を挙げました。真っ先に、禅秀の娘婿である修理大夫兼胤・その父の千葉大介満胤・弟の同陸奥守康胤・千葉一族の相馬・大須賀・原・円城寺を初め八千余騎、米町表に控える(『鎌倉大草紙』)。
この「禅秀の乱」に参戦した「相馬」は、『千葉大系図』では、胤継系の胤望の子胤長(たねなが)としていますが系図では胤長で絶えています。胤村系胤長と同名なので、あるいは、同一人物かも知れません。