胤村系相馬氏と胤継系相馬氏

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 十四世紀後半から十五世紀は、下総相馬氏の事績が多々記録されていますが、肝心の諱(いみな)(実名(じつみょう))が判らず苦慮しています。推定で胤村系(○)と胤継系(●)に、分類不詳を(▽)に、少々強引ですが区分してみます。
 ●応安十一年(一三七四)八月、「下総国香取社長房等申す神領等の事、両使に仰せられる所也、早く一族で相催し、合力加えるべく、相馬上野次郎殿」(「鎌倉府執事奉書」/『香取文書』)
 ●応永二年(一三九五)以前「一所、今度刻、野木崎村、北相馬守屋入部(「岩松氏本知行分注文案」)
 ●応永二十三年(一四一六)十月、「禅秀の乱」勃発、千葉一族の満胤・兼胤、「相馬」が参戦(『鎌倉大草紙』)。千葉兼胤は、幕府軍が鎌倉に迫ると降参して、持氏方についた。
 ○応永年間(一三九四~一四二八)浄土宗西光寺(守谷市大柏)の創立と伝え、本尊は平安から鎌倉の作といいます。
 ●永享七年(一四三五)六月、「長倉城攻め」、公方足利持氏は、禅秀に味方した残党狩りの為、長倉城(常陸大宮市)征伐に、大須加(大須賀)「相馬」・が参陣(『長倉追罰記』)。
 ●永享十年(一四三八)八月、「永享の乱」、公方持氏(もちうじ)と管領上杉憲実(のりざね)の仲違えで、幕府軍に攻められ持氏自殺。千葉直胤、持氏に御自害を勧め奉る(『永享記』)。
 ●永享十二年(一四四〇)三月、「結城合戦」持氏遺児をかくまった結城氏朝(うじとも)に対しての幕府征討軍に、上総・下総の軍勢が参戦、「相馬」氏の参戦は不明(『永享記』)。
 ○文安二年(一四四五)-守谷城主「相馬氏」が延命寺(坂東市岩井)本堂・薬師堂・山門を寄進(『水海道市史』)。
 ▽享徳三年(一四五四)十二月、成氏、上杉憲忠を誅殺、「享徳の乱」発生(『赤城神社年代記』)。
 ●享徳四年一四五五三月、千葉宗家の千葉胤直(たねなお)の千葉城(千葉市中央区亥鼻)は、成氏の支援を受けた馬加康胤によって落城、千葉宗家は馬加(まくわり)氏(千葉市幕張)となる(『鎌倉大草紙』)。
 ○康正元年(一四五五)十月、上野国羽継原(はねつぐはら)(館林市羽附(はねつき)町)合戦で、幕府方・上杉方は成氏の古河城を攻めるべく、利根川を渡河した際に大敗する、相馬・千葉介は上杉方(『永享後記』)。
 ●康正元年(一四五五)十一月、千葉氏内紛で、将軍家御教書(みぎょうしょ)を携え、千葉一族の東常縁(とうのつねより)が下向、同国の相馬・国分・大須賀軍を相随い、馬加城(千葉市花見川区幕張)攻め、馬加康胤と子の胤持を敗死させた(『鎌倉大草紙』)。
 ●康正二年(一四五六)正月、上杉氏は、千葉宗家の勢力回復を図らんため、千葉賢胤(かたたね)の遺児実胤(さねたね)・自胤(よりたね)を市河城(市川市真間の弘法寺(ぐほうじ))に拠らせたが、古河公方成氏は、簗田氏を始め大勢を派遣し、実胤・自胤は武蔵へ逃げる、この戦で「相馬盛屋妙盛」が戦死。そのほか、相馬郡内の国人層で曽根・円城寺(えんじょうじ)・児島・豊島・匝瑳(そうさ)・戸張(とばり)などの戦死者名が確認できます(『本土寺過去帳』)。
 ▽長禄二年(一四五八)八月、将軍義政の弟政知が鎌倉公方として東下したが伊豆堀越(ほりごえ)に留まり堀越公方と云われた。
 ○長禄三年(一四五九)相馬弾正胤廣が、一言主神社の社殿を再建(『一言主神社由来』)。
 ●文正元年(一四六六)四月、金杉二郎五郎、盛屋にて討たれる(『本土寺過去帳』)。金杉氏は胤継系方カ。
 ▽延徳五年(一四九三)正月、相馬泉殿没、奥州相馬氏の岡田泉五郎胤康(たねやす)の末裔カ(『本土寺過去帳』)。
 ●文亀三年(一五〇三)八月、相馬守屋殿没(『本土寺過去帳』)。
 康正元年(一四五五)正月、鎌倉公方足利成氏は鎌倉を追われ、三月には古河に陣を据え、古河公方を称しています。古河城を基点として、各地に転戦した訳ですが、鎌倉は幕府軍と上杉軍が占拠したため、鎌倉へ帰還することは出来ませんでした。
康正元年九月二十七日、足利成氏は、成氏方の岩松持国(もちくに)に、武州岡部原合戦を祝し(『正木文書』)、康正二年(一四五六)十一月二十七日岡部原合戦に於いて、幕府方の細川勝元(かつもと)が和田定資(さだすけ)の労をねぎらっています(「室町将軍家御教書」)。
 この頃、関東では、戦が多発しています。その原因は、利根川左岸に位置する古河に、古河公方足利成氏が頑張り、右岸の「五十子陣(いかっこじん)」(本庄市大字東五十子・西五十子)に関東管領山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が対峙していました。史料上では「陣」といえども、それはまさに「城郭」でした。康正二年(一四五六)~長禄二年(一四五八)頃築かれたといいます。発掘調査では、関東地方ではとても貴重な中国製品や青磁製品が出土しています。存属期間は二十年程度ながらも、まさに、関東一の都市としての側面も持ち合わせていたと考えます。
 この間の出来事を良く読みますと、守谷には二系統の相馬氏が居り、公方方に忠節尽くす胤村系相馬氏と、千葉宗家を大事にして、古河公方とも敵する胤継系相馬氏です。
しかし、第十六代胤廣の時代の頃から、次第に淘汰され、公方方に味方した胤村系相馬氏に統一されます。その鍵を握るのが、第十代胤宗で、海禅寺の中世相馬氏の位牌(p.142)の冒頭にあります。
胤村系相馬氏は守谷城を居城とし胤宗から二十代治胤まで相馬氏宗家として臨済宗妙心寺派海禅寺を菩提寺としています。
胤継系相馬氏は、『本土寺過去帳』にあるように、日蓮宗に帰依しています。千葉本宗家に味方して東常縁に従った「相馬」や、戦死した「相馬盛屋妙盛」は胤継系と思われます。しかし、胤継系の系図は胤長で途絶えております。
ここで、胤継系相馬氏を採り上げて見たいと思います。