補記 胤継系の下総相馬氏

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胤継の義絶
 胤継と胤村は異母兄弟で、先妻の子胤継は、継母の相馬尼に義絶(勘当)されています(「相馬胤綱子孫系図」P.126)。『神代本千葉系図』によれば、胤継の孫の胤親は守屋姓を名乗り、胤頼は澤八郎で、守谷市の立澤から名字にしています。また、『千葉大系図』では、胤継は「妙見堂、擁護山西林寺及び観音堂を修造」しています。このことから勘当された胤継は、守谷城近くの高野(こうや)城(守谷市高野)に居を構えたと思われます。守谷市本町の西林寺や八坂神社のもと地は、高野村字本宿(ほんじゅく)です。本宿は、鎌倉時代の命名らしく、往古、守谷の中心地と想像されます。また、守谷市鈴塚にあります日枝(ひえ)神社は、『明治迅速測図』によると「妙見社」とあり、この仮説を補強しています。

胤継系と胤村

 右系図で、胤継系は、忠重は南北朝動乱時の活躍で知られ、胤望(たねもち)は、応永七年(一三七四)頃、千葉家の家人(けにん)中村胤幹(たねもと)が香取社(香取神宮)領を横領するという事件が発生しました。香取社の訴えにより、鎌倉府は十五歳の千葉満胤みつたねに悪行の停止と香取社造営の促進を命じましたが、当主の満胤は胤幹を弁護しました(「千葉満胤請文」/『香取旧禰宜家文書』)。この背景には、新興家臣の円城寺・鏑木・中村らと、鎌倉以来の家臣、相馬・大須賀・国分・東・木内(きのうち)などの主導権争いがありました。
 応安七年八月九日、「鎌倉府執事奉書」/『香取文書』で、千葉介の横領を退け、両氏に合力するよう執達しました。
鎌倉府は、安富(やすとみ)大蔵入道(道轍)と山名(やまな)兵庫大夫入道(智兼)を派遣、千葉一族に、力を貸す様にと、木内七郎兵衛入道(禅広カ)以下相馬上野次郎ほか十名に奉書を発給しました。『千葉大系図』は、相馬上野二郎は胤望としています。
その後、嘉慶二年(一三八八)満胤は横領地を社家に引渡し、一件落着しました。
 十四世紀末に書かれたと考えられる「岩松本知行分注文案」/『新田岩松文書』に、
    「注文下総国内知行分
   一所藤意村さ  うおう寺料所   今度刻、奉行山名入部
   一所野毛崎村  円城寺豊前守知行 今度刻、北相馬守屋入部
   一所手賀・布施 彼両村之事同闕所 泉治部大輔・原将監知行
       上総国之内
   一所萬国郷由緒地
     今度刻まで鹿島知行 以上」
 藤意(ふちこころ)村(柏市藤心)の山名は、「香取社造営事件」の山名兵庫太夫入道でしょう。「今度刻」は、一件落着した嘉慶二年と思われます。また、野毛崎村(守谷市野木崎)も同様に、鎌倉府から論功行賞を貰えるのは、相馬上野次郎のほか考えられません。そうすると、相馬上野次郎は、胤継系の北相馬守屋氏(胤望)となり、高野城に在城していた可能性があります。
 ここで、胤村系と胤継系が、守谷で共存出来るのかと考えますと、胤村系は、守谷城周辺の鬼怒・小貝川流域を支配し、胤継系は、高野城周辺の旧常陸川(現、利根川)流域を支配していたと仮定します。中世の板碑を見てみますと、守谷市域の板碑残存数は、極端に少なく全部で十三基です。その全てが利根川流域の大木・板戸井・野木崎地区です。この差は、支配者にあるような気がします。守谷の下総相馬氏が支配した北相馬郡は八一基(旧取手市四八基・旧藤代町一一基・旧谷和原村七基・旧水海道市一五基)に対し、南相馬郡の四五〇基(我孫子市一一〇基・旧沼南町二〇一基・旧柏市一三九基)は、北相馬郡に較べ一桁多いです。ご参考までに奥州相馬氏の行方郡の板碑数は、僅か十四基(岡田清一著『相馬氏の成立と発展』)です。下総相馬氏も板碑造立が皆無という訳ではありませんが、後日の考証を待ちたいと思います。
 胤継系最後の胤長は、先述した応永二十二年(一四一五)の「禅秀の乱」で千葉一族として参陣しています。その後の胤継系相馬氏は、残念ながら『千葉大系図』上では途絶えています。永享七年(一四三五)の「長倉城攻め」、同十年の「永享の乱」、同十二年の「結城合戦」享徳三年(一四五四)の「享徳の乱」、康正元年の「東常縁の下向」などの争乱が続発し、「関東の戦国時代」の幕が開きますが、相馬氏の実名が判りません。実名らしき名が判るのは、『本土寺過去帳』が頼りです。
 康正二年正月(一四五六)正月、市河に於いて打死した「相馬盛屋妙盛」、文正元年(一四六六)四月、金杉二郎五郎盛屋にて討たれる。文亀三年(一五〇三)八月、「相馬守屋殿」没、千葉氏も古河公方足利成氏派と管領上杉派に分かれ内部抗争していました。胤継系相馬氏は管領上杉派と思われます。金杉二郎五郎は、恐らく船橋市金杉町の在地領主でしょう。
 一方、胤村系は、十代胤宗が海禅寺に安置されています「中世相馬氏の位牌」の冒頭にあります。さらに、十三代胤高の没年は永正八年(一五一一)八月十八日で、何故か『寛政譜』に記載されております。推論ですが、十六世紀の始めには、胤継系は滅亡し胤村系に統一されたのではないかと思われます。
 ここで、守谷市近辺にあります寺院の創立年代をピックアップしますと、文安二年(一四四五)岩井市の延命寺を守谷城主相馬氏が創建、長禄三年(一四五九)相馬弾正胤廣が常総市の一言主(ひとことぬし)神社を再建、文明十一年(一四七五)中興、取手市下高井東光寺薬師堂、諸檀那胤秋、などあり相馬氏の交代を裏付けしています。
なお、守谷市大字に「法花坊(ほっけぼう)」がありますが、「法華堂の在った所であることは想像に難くない」(斎藤隆三著『守谷志』)。日蓮宗との関係は不詳です。
 ところで、我孫子市の北星神社(我孫子市台田4)はもと妙見宮と呼ばれ、中世の相馬氏が所有していました。その東隣に、中世館跡と見られる「法華坊(ほっけぼう)遺跡」があります。法花坊と関係がありそうですね。