十五代相馬徳誕(のりのぶ)(?~一五二五)

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 胤實の嫡子と思われ、官途名は下総守、通称相馬小次郎、俗名は胤徳、出家後、徳誕と称し、号寶珠庵。大永五年(一五二五)閏十一月「足利高基書状写」/『常総文書』に、「徳誕蔵主死去、無是非次第候、然者、相守因幡守、無二励忠信候」とあります。この頃、足利氏の正嫡争いで古河公方高基(たかもと)と弟の小弓(おゆみ)公方(千葉市中央区生実町)義明(よしあき)が戦っていました。徳誕は高基派でした。
 相守因幡守は、次の当主相馬因幡守胤廣です。なお、徳誕は、大永元年(一五二一)守谷市の奥山新田(現、本町)の香取神社を創建したと伝えられています。