十六代相馬胤廣(たねひろ)(生没年不詳)

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 徳誕の嫡子、官途名は因幡守・修理亮、号天桂、『寛政譜』に二人の兄弟あり。

 

 胤廣の時代、古河公方高基と小弓公方を称した足利義明が、公方の座をめぐり正嫡争いの最中でした。房総の武士団に担がれた義明は、古河・関宿をターゲットに高基領国である下総国の城々と合戦に明け暮れていました。永正十八年(一五二一)小弓公方軍は名都借(なずかり)城(流山市名都借)を陥落させ、以後、同城は古河攻めの前線基地となりました。そんな中、年不詳、「足利高基感状」/『鮎川文書』に「昨日十三於高野要害、抽粉骨被之条神妙候、於向後御後可存其旨候也」と、鮎川図書助に感謝状が発給されています。
 高野要害として存在していたのは、茨城県守谷市と埼玉県杉戸町だけで、杉戸町は一色氏の高野(たかの)城です。鮎川氏は簗田氏の部下のため、梁田氏と関係が深い相馬氏の城の高野(こうや)城(守谷市高野)である可能性が高いです。胤廣は、隣国(葛飾郡カ)と度々合戦に及び武勇に励んだとしています。