胤廣の嫡子、官途名左衛門尉、通称松王丸・相馬小次郎、号華桂。
天文六年(一五三七)正月、小田城主(つくば市小田)の小田政治(まさはる)は、宿敵結城政勝(まさかつ)を滅ぼそうとして、結城家臣の下妻城主(下妻市)多賀谷家重(いえしげ)を誘います。結城から自立を目論んでいた家重は、早速同盟を結び結城城への侵攻を企てました。小田動くの報に接した政勝は、古河公方晴氏に救援を依頼します。
「晴氏則膝下ノ諸将を催サレ、壬生・簗田・守谷・筒戸・皆川・一色等馳セ加ハル」(『関八州古戦録』)。
援軍を得た政勝軍は小田勢を潰走させ、多賀谷家重の下妻城を攻めますが落城できずに帰陣しました。この頃、『関八州古戦録』が記す、守谷氏は胤貞、筒戸氏は胤廣の弟胤光(たねみつ)ないしその子と思われます。