河越城(川越市郭町)は、元々は扇ケ谷上杉氏の本拠でしたが、天文四年(一五三五)北条氏綱に攻められ落城、その氏綱も天文十年(一五四一)病没。氏綱の死去は関東各地に伝えられ、同十一年六月、平井(藤岡市)の関東管領山内上杉憲政(のりまさ)は、常陸鹿島神宮に願文を捧げ、北条氏の討伐を誓います(「上杉憲政願文」/『鹿島神宮文書』)。
そして、同十四年九月、同族の扇ケ谷上杉氏を誘い北条氏綱の娘婿の古河公方足利晴氏をも味方につけ、約十万騎で河越城を半年余り包囲しました。対する河越城主北条綱成(つなしげ)軍三千、北条氏康の小田原援軍八千騎です。
天文十五年(一五四六)四月二十日宵闇が迫る頃、北条氏康勢が突撃し縦横無尽に切り込みました。突然の夜襲に油断していた山内上杉軍は拠点の平井城(群馬県藤岡市西平井)へ敗走、扇ケ谷上杉朝定(ともさだ)は討死。晴氏軍は綱成軍が思いがけず背後の城門から切って出たので、晴氏を先頭に逃げ出しました。この様子を『関八州古戦録』はこう記しています。「簗田・一色・結城・相馬・原・菅谷・和知(わち)・二階堂等、晴氏ヲ先ニ立テ、散々成テ敗北ス」。この時、相馬胤晴は討死したようです。何とならば、「河越夜戦」のあった日と胤晴の没年が、同じ天文十五年四月二十日です。
このいわゆる「河越夜戦」によって、扇ケ谷上杉氏は滅亡し山内上杉氏と古河公方は関東での勢力を失い、以後、関東は北条氏の手中に帰すことになります。実は、この合戦は夜に行われたものではないらしく、確実な古文書による限り「夜戦」とは出てきません。ただ、後代の戦記物の『北条記』や『関八州古戦録』は「夜戦」としていますので、「河越夜戦」で定着したと思われます。
古河公方側近である梁田氏の『与吾(よご)将軍系図』によれば、二代に亘って相馬家に嫁いでいる娘がいます。
簗田高助(一四九三~一五五〇)の姉の相馬室は、相馬胤貞ないし胤晴の正室。また、梁田晴助(一五二四~一五九四)の妹の相馬室は、相馬胤晴ないし整胤の正室と思われます。