十九代相馬整胤(まさたね)(一五四四~一五六六)

154 ~ 154 / 330ページ
 胤晴の嫡子、官途名は左衛門尉・下総守、通称相馬小次郎・小二郎、号實山、海禅寺の位牌に「實山常真」、永禄九寅年正月廿七日死、為家臣生害・家来僕従等、依逆意生害、年二十三歳(「相馬之系図」/『歓喜寺所蔵』)。
 「河越合戦」翌年の天文十六年、北条氏康の命により、江戸城配下の江戸衆(興津神次郎・桜井某)が相馬口まで押し寄せて来ました(「北条氏康書状」/『桜井文書』・『内閣文庫古文書』)。氏康は、城主を亡くした守谷城を絶好な機会とみて襲わせたのでしょう。この時、守谷城主はわずか四歳の整胤でした。
 天文十九年(一五五〇)十一月二十三日、千葉妙見社(現、千葉神社千葉市)の遷宮儀式が挙行され、大檀那千葉親胤以下千葉一族がこぞって参列しました。相馬氏も御太刀を献上しています。ただし、参列した一族の名前は呼び捨てですが、殿付けは海上(うなかみ)氏・神崎(こうざき)氏・相馬殿の三名だけです(『千学集抜粋』)。相馬殿が誰かは不明ですが、千葉宗家から客人扱いされている処をみると、一族から一歩離れた胤村系相馬氏に間違いないと思われます。
 古河公方晴氏は、北条氏康の圧力に屈して天文二十一年(一五五二)十二月、嫡男藤氏を廃して、氏康の妹芳春院との間に生まれた梅千代王丸(うめちよおうまる)(義氏)に公方の座を明け渡しました。
 天文二十二年(一五五三)四月、長尾景虎(上杉謙信)の古河攻めの風聞が立ちました。この時、太田資正(すけまさ)は安房の里見義堯(よしたか)を景虎方に引き込みます。
 宿敵里見の動きに対し、北条方の千葉利胤(としたね)は小田原の氏康に出馬を要請し、そして自ら六千騎で武州村岡(熊谷市村岡)へ出陣します。守谷・布川・梁田・一色等の味方を待ち陣を張りました。ここでいう守谷の城主、整胤はまだ十歳なので、家臣が陣代として参陣したと思われます。