整胤の姉を娶り、整胤の養子となって相馬家を継ぐ。官途名は左近大夫、通称相馬小次郎、号實山・転心斎、海禅寺の位牌に、「了山悟公大居士」。慶長七壬寅(一六〇二)五月六日没、行年六十二歳。
「治胤幼年ヨリ好奇学十六夜天臣ト云、北条氏政父子為幕下強勇也、将門具足波羅門銅名信田玉造本系図将門差科蓮花太刀光太刀二腰嫡々相伝之」(『相馬当家系図』)。「治胤幼年ヨリ弓矢ヲ取テ其ノ誉レ多シ、奇学ヲ好ム十六夜ノ天臣トモ云、」(『相馬左近大夫・民部大夫系図』)。
ここに、弘治三年(一五五七)八月発給の一通の書状があります。
「(前略)大上様去月廿四日古河へ御座を移され候、是非無き御事に候、今に小山之高朝様・相馬殿に無む二に御走廻はしりめぐり候、日々御普請等仰付けらるるの由、申し候、(後略)
八月七日 三喜斎 昌純(花押影)
水戸へ参 」 「三喜斎昌純書状写」/『安得虎子』
大上様は足利晴氏、宛名の水戸は、水戸城の江戸忠道(ただみち)です。発給者の三喜斎昌純(まさずみ)は、義氏側近で医師の田代昌純。大意は、晴氏が先月二十四日に無事古河城へ移ったのは是非なき御事で、今に小山高朝(たかとも)様と相馬殿がに無二(むに)奔走し、日々御普請等仰せ付けられる由と申す。いずれにしても、古河公方を解任された晴氏が自分の意志で普請をいえる立場になく、うしろに控える北条氏康が晴氏を通して多額の出費を伴う普請を命じたのでしょう。晴氏の廻りには、梁田・結城のような有力者が居たのにも拘わらず、敢えて弱小な相馬殿を選んだ背景には、内紛の結果、成り上がった治胤の忠誠心を秤に懸けたと思われます。
この「相馬殿」を『取手市史』・『野田市史』は、整胤に比定しています。この書状の発給者である田代氏が、小山高朝様と相馬殿と敬称を使い分けしていますが、鍛代敏雄氏は、小山高朝は、母が晴氏の母と同じ宇都宮氏出身のため親族扱いとして、相馬殿は公方を支える豪族としています。
これより三年前の天文二十三年(一五五四)十月、晴氏は嫡男藤氏と古河城に籠城し北条氏に反旗を翻しましたが攻められ、氏康によって相模国波多野(秦野市)に幽閉されていました。
弘治三年(一五五七)七月、晴氏は許されて、小山・相馬氏が普請に奔走している最中の古河城に復帰しました。しかし一ヶ月後の九月には藤氏と古河城奪取を企てた事が発覚し、家臣だった栗橋城主野田氏に拘束され永禄三年(一五六〇)に生涯を終えます。藤氏は捕らえられ追放されました。藤氏は腹違いの弟義氏の登場で晴氏の後継になれず北条氏を敵対視したのでしょう。
このように、北条氏は古河公方を翻弄し利用することで、梁田・小山等の北関東豪族を手なずけ、領国経営を進めていました。義氏が内紛中の相馬家に「相馬家中之仕合」と口を出してきたのも、その一環です。その関東に、上杉憲政から関東管領職を譲られた上杉謙信が越山して、関東の戦国時代の後半を迎えます。