相馬家の内粉

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 この頃、相馬家で家督争いがあったらしく、年不詳(弘治二年カ)四月九日付「足利義氏書状」/『野田家文書』の野田左衛門大夫(弘朝)宛に、「小田口静謐、各開陣の刻、相馬在所へ向かい御動(おんはたら)き有るべく候」。小田口とは、弘治二年(一五五六)に勃発した「海老ケ島の戦い」を指しており、戦(いくさ)が終わり各軍が陣を払ったら相馬に行き内紛を収拾するよう指示しています。
 さらに、年不詳(弘治二年カ)の「足利義氏書状写」/『野田家文書』があります。宿老の野田左衛門大夫(弘朝)に宛てた九月十七日付書状で、「今度、相馬家中の仕合、是非無き題目に候梁田中務大輔(晴助)に御勢を遣わす事、仰せ付けられ候速かに一勢立ち進じ候はば、感悦たるべく候」。もう一通は小山弾正大弼(おやまだんじょうたいひつ)(秀綱)宛で同文です(「足利義氏書状写」/『小山氏文書』)。
 内紛は九月になっても治まらず、義氏はやむなく簗田晴助に出馬を命令する一方、野田・小山氏に対しても援軍を要請したと思われます。梅千代王丸が元服し、将軍義輝から「義」の一字を与えられたのが弘治元年十月で、義氏名の書状初見は十二月です。右の書状は同二年以降の発信となります。したがって、内紛の時期は、弘治二年(一五五六)であったと推理します。
 治胤時代の相馬氏家系図の詳細は左図になります。

 

 内紛の結果、相馬系図にあるように、治胤が整胤の姉と結婚し、整胤を廃嫡し、形式上は養子となって相馬家を継ぎます。
その時が弘治二年なら、治胤十六歳で整胤は元服前の十三歳です。当人同士の確執ではなく、重臣団の御家大事の忖度と推察されます。その後整胤は永禄九年(一五六六)まで生存し子供まで儲けているので、内紛とはいえ、主だった家臣合意の上の当主交代でした。しかし、整胤は永禄九年正月、逆意に依り、家臣合川志摩某の手によって、子等と共に殺害されました(『歓喜寺所蔵系図』ほか)。
 この逆意の裏に、梁田氏の陰が見えます。永禄七年(一五六四)三月、「上杉輝虎判物写」/『簗田家文書』に、「連々侘言候間、その意に任せ、相馬一跡進じ候」、永禄十年(一五六七)四月、「北条氏政起請文写」/『同文書』に、「相馬一跡并要害、本意候様に相稼ぐべく候」、元亀元年(一五七〇)十二月、「武田信玄起請文」」/『同文書』に「相馬遺跡幷要害、貴辺御本意の儀、里見義弘談合相稼ぐべく申し候」と、謙信も氏政も信玄も、簗田晴助が記した書状の文面通り、相馬一跡並びに要害を晴助に渡すと記しています。晴助はなぜ相馬領を一跡(後継に譲る全財産)・遺跡(個人の残した領地・地位等)と呼ぶのでしょうか。永禄九年正月に亡くなった整胤の遺跡といいたかったのでしょう。つまり、晴助の甥である整胤から、当主の座を奪い取った治胤の所有を認めていなかったことになります。
 弘治二年頃の「相馬家中之仕合」で、その調整のため晴助は出陣していますが、その時、晴助は整胤に味方したのでしょう。守谷城を相馬整胤の遺跡と主張する背景には、簗田家と相馬家の二代続けての婚儀を重ねた背景に、整胤は簗田家の人間と思っていたことにあります。
 この戦乱の中、「総州関宿城同士事」/『関八州古戦録』に、始めて相馬氏の実名(親胤(ちかたね)・治胤)が登場します。この親胤は、『寛政譜』にある某長四郎と思われ、「相馬一家連名帳」にある筒戸小四郎胤文と推量します。
 「永禄三年(一五六〇)、于時(このとき)公方義氏関宿城ニマシマシ、越兵(上杉輝虎)襲ヒ攻シトノ風説專ラナルニ付テ、梁田中務大輔政信(晴助)南方(小田原)へ助援ヲ乞ケル故、結城六郎晴朝・長沼左衛門尉宗信・相馬小三郎親胤(小次郎治胤ノ舎弟)モ見次ノ為トテ参陣」、永禄三年正月、上杉謙信の上野国・北武蔵侵攻を聞いた簗田晴助は、相馬親胤などに助援を請い、彼等も応じて参陣しました。治胤は永禄三年で当主扱いされています。
 永禄四年春作成の「関東幕注文(かんとうばくちゅうもん)」/『上杉家文書』に、古河衆の中に「相馬 四ツ目結」とあります。一色直朝(なおとも)と同様、古河衆に捉えられています。「四目結(よつめゆい)」は、治胤が高井家の紋を届けたと推察します。
   「 幕之注文 古河衆
    簗田    水あおい三本たち (簗田中務大輔晴助 水葵三本立)
    同 下野守 水あおい二本たち (簗田下野守助孝  水葵二本立)
    同 右馬亮 同        (簗田右京亮助良  同    )
    同 平四郎 同        (簗田平四郎助綱  同    )
    同 平九郎 同        (簗田平九郎助清  同    )
    一宮河内守 二ひきりょう   (一色民部大輔氏朝 二引   )
    二階堂次良 たてすな     (二階堂次郎    立砂   )
    相馬    四ツめゆひ 」  (相馬孫三郎治胤  四目結  )
 また、『上杉家御年譜Ⅰ』(米沢藩が編集、元禄九年完成)によれば、「相馬」は相馬孫次(ママ)郎治胤 四目結」とあり、治胤の実名が記載されています。
 越山して厩橋(まやばし)城(前橋市大手町)に入城した謙信は「凶賊北条を討つ」を宣言し、関東の諸将に厩橋城に参集するよう命令しました。『幕注文』に記帳した関東諸将は、二五五名の名と家紋が衆ごとに記されています。
 永禄四年(一五六一)、謙信の命令の下、小田原城攻めの大軍十一万五千の軍兵が、三月十三日未明には小田原近くに陣を進めたといいます。智将氏康は、籠城策をとり徹底抗戦しました。攻め飽きた謙信は、閏三月三日兵を引き鎌倉へ向かうことにしました。
 結局、二十日間の攻防戦は氏康の作戦勝ちに終わりました。謙信には、もっと大事な仕事が控えていました。
 閏三月十六日、謙信の関東管領就任式が鎌倉八幡宮で挙行されました。ここに上杉家の名跡を継ぎ、憲政から政の一字を与えられ上杉政虎と改名します。その後、将軍義輝からの諱を拝領し、輝虎と改め、更に入道して謙信と称しますが、ここでは、判り易く謙信一本で進めます。

鎌倉八幡宮(鎌倉市雪ノ下)

 ところが、思わぬ事件が起きました。儀式が終わり謙信が参道を下って鳥居を出た時、道の両側で諸将が頭を地に伏していた最中に、一人頭を垂れない武将がいました。謙信は激怒し手にした扇子で額を打ち烏帽子を打ち落としてしまいます。
成田長泰(ながやす)は多勢の前で恥を掻かされ、その夜のうちに、無断で忍(おし)(行田市本丸)へ帰ってしまいました。謙信の傲慢不遜な態度と直情径行な性格を見て、厩橋まで行動を共にする関東の武将たちは、次第に減っていきました。
『千葉伝考記』によれば、「成田長泰が去った後、一番に大石源右衛門戸倉(あきる野市)へ走る、二番に千葉介總州へ退かる、これを見て、小山・一色・結城・長沼・壬生・毛呂・相馬の人々も皆引き退きける」と治胤も脱走組でした。
 話変わって、簗田晴助の相馬領侵犯の野望は根強く、永禄五年(一五六二)正月十三日、家臣の鮎川図書助(ずしょのすけ)宛「簗田晴助感状写」/『秋葉家模写文書』に、「今度目吹の城の攻略、粉骨抽んでて走廻(はしりめぐる)(奔走)の条、いよいよ忠信励むべく候、謹言」と目吹城(野田市目吹)を攻めていました。また、永禄五年四月廿二日、家臣の石山隼人佐宛「簗田晴助判物(はんもつ)写」/『下総旧事考』に、「今度相馬の地、若し本意に就けば、佐賀主水抱えの知行分、相違有るべからず候、いよいよ以って忠信励むべき者也、仍て件の如し」と書状で約束しています。
 佐賀氏は、相馬氏の家臣で相馬一家連名帳の中に三名が記載され、元和九年(一六二三)四月の「相馬政胤官途状(かんとじょう)」/『佐賀嘉平家所蔵文書』に「佐賀主水殿」の名があります。晴助の本意(ほい・ほんい)(本懐)とは、後年の文書から相馬領獲得の事を指していることが窺えます。しかし、晴助とて成算がなく判物を出す筈がありません。
 その頃から、北条氏と裏取引があったのではないでしょうか。
 永禄五年二月、古河城は北条の手によって奪い返されています。
晴助は古河城を明け渡す代わりに相馬領の併呑を認めさせたのではないかと思われます。北条方は自分の腹が痛まぬ相馬領のことなどどうでも良かったのでしょう。
 永禄九年(一五六六)正月を迎え、治胤は整胤を家臣に始末させました。整胤の逆意を理由としていますが、簗田晴助の暗躍に対処したと推察できます。