上杉謙信の臼井城敗退

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 永禄九年(一五六六)二月、小田城(つくば市)が謙信に攻められ数日間で陥落させられていました。謙信は館林で軍勢を整え、足利勧農(かんのう)城主(足利市)長尾景長を先陣として、武蔵野を通り松戸を経て小金城(松戸市大谷口)近くの本土寺に陣を敷きました。謙信軍の北條(きたじょう)高広は本土寺に「制札」を立てています(『本土寺史料』)。この小金城は北条方に与する高城胤辰(たかぎたねとき)の城で、攻撃目標のひとつとなっていました。この謙信陣に、治胤は代官を遣わし、馬を献上しています(「相馬治胤書状」/『江口文書』)。この頃、治胤は謙信方と思われていなかったのではないでしょうか。謙信がこの小田氏治攻略のため、軍役を課した関東の武将の十七名の兵力が記されていますが(「上杉輝虎陣立書」/『浅間文書』)、梁田百騎はありますが相馬の名は有りません。もっとも、『関東幕注文』にあるように、治胤は簗田衆と見られていたかも知れません。だが、治胤は晴助と敵対関係にあり、晴助の訴え次第では謙信に攻められる恐れもありました。それにもまして北条に与する千葉一族と同族とみられる恐れもありました。それが、馬進上に表れているようで、治胤の複雑な心中が察しられます。
 数日後、謙信は兵八千で臼井城(佐倉市臼井)を取り囲みました。臼井城主原胤貞は千葉宗家の本佐倉城(酒々井町本佐倉)の千葉胤富に援軍を要請しましたが、本佐倉城も臼井城が陥ちたら直ぐに攻撃されることを懸念して僅か五百騎のみ加勢に出しました。他に小金の高城胤辰、たまたま城に居合わせた白井入道浄三(じょうぞう)なる無双の軍配の名人が味方しました。
また、北条方の赤鬼と異名をとる松田孫太郎康郷(やすさと)が、百五十騎を引き連れて駆け付け、都合二千騎で籠城しました。
 この臼井城攻防戦は『北条記』・『関八州古戦録』に詳しく記述されています。三月二十日の夜明け、謙信は螺吹き鳴らして城門に押し寄せます。攻防は一進一退を繰り返しましたが、そのうち雨が降り出したため寄せ手は兵を引いて陣に退きます。その日、長尾景長(かげなが)は鑁阿寺(ばんなじ)(足利市家富町)宛に「落居程有るべからず程に候」と書き送っているので、実城ひとつを残し落城寸前までいっていたと思われます。
 翌日、景長の突進に城兵二百余人討たれ、大手は乗っ取られる寸前の時、思いもよらず、空堀の片崖が崩れて寄せ手の雑兵八、九十人が圧死してしまいます。城攻めは長引き、ついに謙信は二十五日敗退して越後に引き揚げました。
 この情報は、すぐに北条氏政から武田信玄に伝えられています、三月二十五日付武田殿宛書状で氏政は「仍て一昨日、臼井攻め敵数千人手負い死人出来(しゅったい)、此の如くは敗北必定に候」(「北条氏政書状写」/『諸州古文書』)。
 また、義氏は二十八日付で豊前山城守に「今般凶徒に就いては臼井に張陣せしめ、抑(そもそも)去る廿三日大責め致し、五千余の手負い死人出来せしめ、廿五日敗北の段注進、誠に以って簡要、御満足候」(「足利義氏書状写」/『豊前氏古文書抄』)。
 それにしても、北条方の情報伝達は見事というほかありません、臼井の戦勝報告は、江戸城・玉縄城(鎌倉市)を経由し小田原に伝達されました。この支城網のネットワークは、二代氏綱の伝馬制度を基とする由。この臼井城攻防戦は、謙信の不敗神話を崩壊させてしまいました。謙信から離れて行く関東武将も多勢現れています。治胤も、北条方へ義氏を通じて和睦せざるを得ない立場になったと思われます(P.77参照)。
 『上杉家御年譜Ⅰ』では臼井攻めについては、一行も触れていません。謙信大敗は抹消したかったのでしょう。

臼井城跡(佐倉市臼井)