守谷城進上

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 臼井から戻った一年後、治胤には聞き捨てならぬ機密情報が飛び込んで来ました。簗田晴助は北条氏政と密約を交わし起請文を出していました。晴助は未だ獲得していない相馬領を要求し、氏政は、「相馬一跡并要害、本意候様に相稼ぐべく候、もし又相馬折角の上、御所様へ対し奉り侘言申し候ハバ、氏政涯分(がいぶん)(分相応)て晴助の御為宜しき様馳走(ちそう)(世話)すべき事、」「北条氏政起請(文写」/『簗田文書』)。続いて、義氏も晴助に対し、「氏政の助言に任せ、相馬要害一跡並びに本領・新所拾郷、去る年仰せ定めらるるの如く、御落居異議無き事」(「足利義氏契状写」/『国会本集古文書』)と同意していました。
 永禄十年(一五六七)六月、義氏は、「相馬孫三郎の懇望の筋目度々申し上ぐるの間、返答の如くは、要害相渡すべき趣申し遣わす処、此の度其の儀に任すべき由申し来たる事」(「足利義氏条書写」/『国会本集古文書』)と氏政に報告しています。
 治胤は和睦の条件として守谷城進上を約束しました。直ちに守谷城は北条方へ引き渡され、早くも七月には小田原勢が守谷城に入城、八月には義氏側近の芳春院周興(ほうしゅんいんしゅうこう)も入城しました。十月、義氏奉公衆の相馬孫五郎が永年の奉公の恩賞として上飯津嶋郷(坂東市上出島カ)を宛行(あてがい)されました。此の孫五郎は仮名に治胤と同じ「孫」を用いていますので治胤の一族かも知れません。
 十一月「義氏書状写」/『豊前(ぶぜん)氏古文書抄』に、「相馬の儀万事御窮屈と思召し候、(中略)相馬左近大夫方へも急度(きっと)仰せ出さるべく候、清光曲輪踞居の儀、先番衆も同前に申し上げ候き、然ると雖も番衆不足の間にて仰せ出されず候、これ又左近大夫へも仰せ付けらるべく候」、と苦情が述べられていますが、ここで云う清光曲輪は、守谷城清水門内の清水曲輪を指すと思われます。永禄十一年(一五六八)五月二十六日付「北条氏政書状写」/『豊前氏古文書抄』に、「進上御奏者 左京大夫氏政、此度古河・相馬御下知の如く、普請等堅固に申付け、帰陣仕り候、委細豊前山城守言上申すべく候」とあり、公方義氏の命で、氏政が古河・相馬城の普請を申し付けたと奏者(周興カ)に報告しています。守谷城の北条氏による修築は、翌十一年五月頃に、本格的に始められたようですが、氏政は同時に古河城の普請も行っています。氏政が守谷城を訪れたという記録はありませんが、氏政は深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の資質があり、公方家人の豊前山城守(基頼カ)ともども、守谷城の現地視察に訪れた可能性があります。氏政は、公方の御座所に相応しい城郭として、守谷城を増改築するよう面目に懸けて堅固に申しつけて帰陣したと思われます。
 なお、氏政は北条家当主にも拘わらず、公方義氏宛書状に「進上」(上所(あげどころ))・「御奏者」(脇付(わきづけ))・「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」)(書止文言(かきとめもんごん)を用い、「書札礼(しょさつれい)」で厚礼を尽くしています。公方の格付を上げる目的で範を示したかったのでしょう。
 その間、治胤らは支城の高井城か筒戸城に退いたと思われます。が、一方で、番衆は治胤配下から出していたようで、全面的な城の明け渡しは行われず、依然、治胤以下城兵は在城していた様子も窺えます。
 永禄十二年(一五六九)閏五月、謙信と氏政は「越相同盟」を締結します。義氏は古河城へ入城、守谷城に詰めていた北条勢は義氏の移座までには退城したと思われます。こうして治胤は、守谷城を公方の御座所として提供させられた代償に、公方義氏の国衆という身分保証を得て、北条氏の軍事指揮下に組込まれます。北条氏の他国衆としての相馬氏を指南・取次したのが、小田原の宿老松田憲秀(のりひで)であったようで、この憲秀に対し、胤永は新年を賀しています。年不詳ですが、憲秀の礼状があります。
 「来翰の如く、三陽の御吉兆千喜万悦、猶更休期有るべからず候、御祝儀として、雁并びに鯉贈り賜わり、祝着の至りに候、これより紈素(がんそ)一合下緒(さげお)一合進じせしめ候、万吉永日の時を期し候、恐々謹言
     正月十二日  尾張守憲秀(花押)
   謹言 相馬十郎殿(胤永)
         御報          」「松田憲秀書状」/『広瀬晋一所蔵文書』
 万吉永日の時を期し候と、お会いする日を待ちもうけるとしていますが、のちの「小田原合戦」では二人は対面を果たし、相馬氏は憲秀の部隊に属することになりました。
 北条方の一員となった治胤の書状があります。元亀元年(一五七〇)公方義氏への近況報告書です。治胤の発給文書は、先の小金陣の時のと、今回の二通しか残されていない貴重な史料です。
 
 「態(わざ)と脚力(かくりき)を以って申上げ候、海賊上の御座近辺に放火の由、其の聞え候、一段御心元無く存じ奉り、此の由披露頼み入奉り候、然れども信玄豆州への調儀、差したる義無く、退散の由申し来たり候、彼の口様子の後報尤もに候、佐竹筋の儀は、小田の地へ太美物主に仰せ付けられ候、弥々(いよいよ)氏治御苦労までに候、御珍らしき義に至らば、軈(やが)て申し上ぐべく候、恐惶敬白、
    五月廿六日    相左
     芳春院      治胤(花押影)
     一源  御侍者中        」「相馬治胤書状写」/『武州文書』
 治胤は、飛脚を以って申し上げ候、海賊(里見水軍カ)太日川(江戸川)を遡上して、古河の御所近辺に放火したが、大事に至らず安堵している旨を公方に伝えて欲しいと芳春院周興に依頼しております。また、武田信玄は、五月十四日北条氏政・今川氏真連合軍と吉原・沼津で合戦していますので、このニュースは、治胤に十二日間で届いたことになります。さらに永禄十二年、「手這坂合戦」で勝利した佐竹義重は、北条方の小田氏治(うじはる)を土浦の藤沢城に追いやり、小田城を太田三楽斎資正(すけまさ)に与えますが資正は固辞し、替りに子の梶原政景(まさかげ)が入城しました。「太美物主」は、太田美濃守資正(すけまさ)で(もと岩付城主、太田道灌の曾孫)、佐竹義重の客将となり片野城主(石岡市片野)、梶原政景は柿岡城主(石岡市柿岡)で佐竹氏より城を与えられていました。
 北条方に与した治胤は、早速、佐竹側から洗礼を受けます。天正二年(一五七四)六月、上杉謙信宛「東義久(ひがしよしひさ)書状」/『上杉家文書』に「御礼の如く、麦上調儀として、古河表へ出馬致され、在々所々一宇無く操り上げられ、総州相馬の地に向かい、干戈を遂げられ、存分に属され、先ず馬を納められ候」と、古河の家を一つ残らず取り上げ、さらに相馬で干戈(戦い)を交え、存分に撃ち破って帰城したと、東義久は謙信に伝え、秋にはもう一度、越山した時には、義重と手を結ぶことを希望すると手紙に記しています。
 天正二年(一五七四)秋、北条氏の関宿城奪取のための「第三次関宿合戦」が勃発。謙信は沼尻(栃木市藤岡町)に着陣、佐竹義重に同陣を促しました。義重は「越相同盟」に反対した手前、謙信を疑い同陣を拒んでいました。この間にも、北条軍は氏政を大将に大手口を攻め、搦め手は上杉を離反した結城晴朝と下総の千葉胤富、都合二万の兵で関宿城を囲みます。対する上杉・佐竹・宇都宮・多賀谷・小山等一万余騎が関宿城を目指しました。
 閏十一月、謙信軍が利根川を渡河しようとした時、結城晴朝が離反したと知り渡河が中止されました。謙信は怒って騎西城(埼玉県騎西町)・菖蒲(しょうぶ)城(埼玉県菖蒲町)等を放火し、羽生(はにゅう)城(羽生市東)を自損し、十一月十九日厩橋城へ戻り、関宿城は佐竹義重に任すと言い残し帰国してしまいました。
 治胤は、氏政から軍令書を受けています。同月、「越衆幸嶋口へ打ち下るべき由、其の聞こえ候、然らば当陣の備は異議無く候、手遠に候へ共、其の口の儀心元無く候間、立ち越され候人衆、先ず草々に返し候、堅固の防戦肝要に候、若し敵の動き相違い、此方手前の用所これ有らば、追って申すべく候、恐々謹言」(「北条氏政書状」/『広瀬晋一氏所蔵文書』)、治胤は関宿城の北に布陣し佐竹勢に備えていたと思われます。氏政は謙信の帰国を知らないらしく、治胤に対し猿島口に謙信軍が来襲するかも知れないので、兵を戻して猿島口を堅固に守れと命じています。
 結局、閏十一月十九日、梁田持助は関宿城を開城して、父晴助の居る水海(みずみ)城(古河市水海(みずうみ))へ退きました。ここに、古河公方家宰としての梁田氏の歴史は閉じられました。また、謙信は、これ以降は関東に出陣せず天正六年(一五七八)三月死去しました。
古河公方の後裔、喜連川(きつれがわ)家に伝来する「足利義氏書状写」/『喜連川文書』に、公方の御料所が記載されています。相馬氏関連の記事を抜粋して置きます。
 
    「御料所方認書 一庵間宮使之時也
       上幸嶋
    やかゐ      御中居領    但し相馬へ被下候内     (古河市谷貝)
       下幸嶋
    てつ嶋      行田掃部助   但し相馬へ被下候内     (坂東市下出島)
    かり宿      清式部大夫   但し相馬へ被下候内     (坂東市借宿)
    きりの木     御厩御領    但し相馬へ被下候内     (坂東市桐木)
    上てつ嶋     小笠原蔵人   但し相馬へ被下候内     (坂東市上出島)
      甲戌(天正二年)                芳春院
       十二月二日                  寿首座(じゅしゅそ)
        垪和(はが)刑部丞殿
    右、関宿落居之砌、氏政陣中へ被仰出案也、 」  「喜連川家料所記」/『喜連川文書』
 天正二年(一五七四)十二月二日付芳春院周興と寿首座昌壽(しょうじゅ)連署書状写で、関宿落城時に氏政へ差出したもの、御料所・知行人のリストです。相馬氏は、関宿合戦の論功行賞で相馬治胤が頂いた土地です。但し相給地でした。
 そのほか「御年頭申上衆書立写」/『喜連川文書』に、相馬氏が登場します。書立写とは、古河公方家臣などから年始の贈り物を書き上げて、義氏の返礼を記した年頭の贈答儀礼の条書です。
 
  天正五年(一五七七)      白鳥一進上    高城下野守の代官、相馬因幡守、
  天正六年(一五七八)正月九日  三種進上     相馬大蔵丞、
  天正八年(一五八〇)正月八日  三種進上     相馬大蔵丞、
  天正九年(一五八一)正月十日  三種進上     相馬大蔵大介、
  天正十年(一五八二)正月十日  三種進上     相馬大蔵丞、相馬因幡、相馬因幡息弾正忠、
  天正十年(一五八二)正月廿一日 御太刀并白鳥進上 高城下野守、代官相馬因幡、
  天正十年(一五八二)正月廿一日 五種進上     相馬因幡、一種進上息弾正忠、
 
 相馬大蔵丞は、「相馬家系図」で治胤の妹に「相馬大蔵大夫胤房妻」とあるので、相馬胤房かと思われます。相馬因幡守は、「相馬家系図」で「相馬因幡守胤廣」とあり、十六代胤廣の系統に連なる人物で、高城氏の代官を務めながら自身もまた息子弾正忠とともに、義氏に対面しています。それにしても、相馬治胤の名がありません。北条氏照を後見とした年頭祝儀の儀礼的意味合いを避け、治胤は政治的に公方奉公衆として、義氏に対して「八朔」の祝儀を進上しています(「足利義氏書状写」/『喜連川文書』)。
 さらに、天正五年一五七七の「北条氏繁(うじしげ)判物」/『大久保文書』に、高井新八郎は佐竹衆・下妻衆が押し寄せて来たとの報を、飯沼城主(逆井城・坂東市逆井)北条氏繁に報告しています。高井新八郎は治胤と同じ高井姓で同族と思われます。相馬一族として、北条一族の氏繁に従属しています。
 また、天正十年(一五八二)、相馬ゆきえが義氏から石川隠岐守の跡地を宛行されていました(「足利義氏書状写」/『『喜連川文書』)。この相馬ゆきえも、相馬孫五郎と同じ公方義氏の奉公人と思われます。
 公方義氏が、天正十年閏十二月没しました。義氏の遺臣たちは、栗橋城の北条氏照に書状を遣わして義氏の遺子氏姫の処遇と古河城の措置について交渉しています。その交渉に於いて使者を務めたのが、相馬因幡守です。この一連の交渉文書が、天正十九年発行の「古河足利家奉公人連署書状写」/『喜連川文書』で、全部で四通残されています。それによりますと、治胤は義氏の葬儀にも参列せず、言質は信用できないと北条氏照に訴えられています。