多賀谷重経の南侵

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 この頃、下妻の多賀谷氏の南侵が止まらず、天正元年(一五七三)には、治胤の勢力範囲である幸嶋を襲い、伏木村の星智寺(茨城県境町)を焼き払って鐘を奪います(『佐怒賀(さぬが)修一郎氏所蔵覚書』)。この星智寺の梵鐘の銘文によると、元は当時岩槻市にあった平林寺(現在は埼玉県新座市)の鐘で嘉慶元年(一三八七)鋳造です。そのあとに追刻で享徳五年の銘文があります。享徳五年は私年号で康正二年(一四五六)に当り、初代古河公方成氏が使い続けていました。その頃、成氏の軍勢が平林寺から奪って来て星智寺に納め、それを多賀谷重経が天正元年に奪い大宝八幡宮(下妻市大宝)に奉納しました。梵鐘の流転が、戦乱の世を物語っています。現在、「嘉慶の銅鐘」として県文化財に指定され、大宝八幡宮の資料館に保管されています。
 さらに、重経は豊田城(常総市本豊田)の豊田治親(はるちか)を、策略を用いて家臣の飯見大膳(いいみだいぜん)に殺させ、豊田氏・石毛(いしげ)氏を滅ぼしました。また、「多賀谷家譜 天正二年の項」によれば、古間木(ふるまぎ)城主(常総市古間木)渡辺周防(すおう)が、多賀谷勢に加わっているので、その頃までに古間木城は落城し降人になっていました。
 関宿城を攻め陥した北条氏政は、過去苦杯を舐めている多賀谷征伐に取り組み、湯田(ゆだ)(坂東市弓田)に砦を築き、大生郷の天満宮の社殿を焼き払って、その跡地に天神城(常総市大生郷(おおのごう)町)を築きました。やがて、多賀谷が反撃に出ますが、この合戦の時期に諸説あります。「多賀谷家譜」や『関八州古戦録』は天正二年(一五七四)説、『新編常陸国誌』・『東国闘戦見聞私記』は天正四年説です。

大生郷天満宮(常総市大生郷町)

 合戦の様子は、多賀谷政経が三百余騎で出陣、重経は鬼怒川の下流より迂回して砦と城を分断し、古間木の渡辺周防守に湯田砦を襲わせます。天神城は火を放され炎上、敗残兵は関宿目指し敗走、『東国闘戦見聞私記』は、天神方の大将北条氏堯(うじたか)は、敗れて内守谷(常総市内守谷)にかかり鹿子内(かなこない)の渡り越え、守谷城に逃げ帰っています。しかし、黒田基樹氏によれば、氏堯は永禄六年(一五六三)四月八日に死去していますので、氏堯の参戦は疑問です。ここでいう鹿子内の渡しは、近世の鬼怒川の「鹿小路(かなこうじ)の渡」で、既に戦国時代に渡しがあったことになります。谷田部城(つくば市谷田部)は、もともとは岡見氏の持城で、元亀(げんき)元年(一五七〇)多賀谷政経(まさつね)に攻められ落城、その後は政経の弟経伯(つねのり)が入城していました。天正八年(一五八〇)三月、足高(あだか)城主(つくばみらい市足高)岡見宗治(むねはる)の要請により北条氏照(うじてる)・氏邦(うじくに)は兵三千を率いて谷田部城奪回の兵を進めました。谷田部城は多賀谷氏の南方前線基地で、北条にとっても目障りな城でした。城を奪われてから十年、宗治は岡見一族の面子を賭けて総動員令を発しました。従う者、もと谷田部城主岡見主殿助、牛久城主(牛久市城中町)岡見治廣(はるひろ)、板橋城主(つくばみらい市板橋)月岡玄蕃(げんば)(広秀カ)、小張城主(つくばみらい市小張)只越全久(まさひさ)、岩崎城主(つくば市下岩崎)只越尾張守ら、それに近隣の誼で相馬治胤が郎党百騎を従え応援に駆け付けました。
 城主多賀谷経伯(つねのり)は、早鐘を鳴らして急を下妻に伝えると、一番に経伯の子彦四郎が駆け付け、城に入ろうとしますが寄せ手は入れまいと取り囲みます。それを櫓から見ていた経伯は、死なせてなるものかと城門を開いて撃って出ました。援軍を待たず城門を開いたツケは大きく、経伯親子は討死し城は落城しました。
 近くの村まで駆け付けた多賀谷重経は、経伯親子の討死を聞き切歯扼腕(せっしやくわん)し、弔い合戦と真っ先に城に殺到しましたので、城に入って一息ついていた北条軍は、新手の攻撃に堪え切れず、終には城を捨て潰走しました。
 その後北条氏照は岡見一族の指南に乗り出し、「牛久番」を創設します。小金城(松戸市北小金)の高城胤則(たかぎたねのり)、布川城(利根町府川)の豊嶋貞継(さだつぐ)、坂田城(千葉県横芝町)の井田胤徳(たねのり)の三城主が交代制で牛久城に詰めました。
 高城胤則は、天正十二年と推測される書状で「今度、小田原御普請並びに牛久番同時に仰せ付けられ候間、御普請の儀、様々御侘言申し上げ候」(「高城胤則印判状」/『六所神社文書』)と過重な御手伝普請と軍役に音を上げていました。