戦国時代の相馬治胤は、相馬一家の宗家として守谷城に居城し、高井城・筒戸城・菅生城・大木城などに、一族近類を配置していましたが、ここに、「相馬一家連名帳」(『改定増補守谷志』の著者斎藤隆三氏の命名)なる、天正九年(一五八一)作成された史料があります。『守谷志』より転載します。
「相馬一家連名帳」
天正九年
相馬左近大夫治胤
高井小太郎 胤永
筒戸小三郎 胤房
菅生越前守 胤貞
筒戸小四郎 胤文
岩堀主馬首(しゅめのかみ) 弘助
大木駿河守 胤清(以下略)
即ち相馬左近大夫治胤は相馬一家の宗家として守谷に居城し、之を遶(めぐ)りて高井(今の高井村下高井)・筒戸(小絹村筒戸)・菅生(菅生村)・大木(大井沢村大木)等に一族近類を配置し、地方に一勢力を持して居ったことは之を明らかにすべく、而して強雄佐竹氏の侵略に対しても、克(よ)く之を防備して、その暴威を振はしめなかったことは、相当に力であったと見なくてはならない。
将門研究家の村上春樹先生からご教授いただきました史料を次に記します。村上氏は大阪市在住の小田原藩士の末裔である相馬氏を訪ね、史料の撮影とワープロ化をしています。
「 前書
高野山一心院谷寶蔵院、為奉憑当家先祖之菩提銘位牌立置所明鏡也、就夫
於我等子孫永代為相違有間敷、各々連書加此併現当二世之祈精所、仰如件
天正九辛巳年 下総国相馬治胤 判
天正九辛巳年 同国 高井十郎胤永 判
天正九辛巳年 同国 相馬大蔵太輔胤房 判
天正九辛巳年 同国 菅生越前守胤貞 判
天正九辛巳年 同国 筒戸小四郎胤文 判
天正九辛巳年 同国 岩堀主馬首(しゅめのかみ)弘助 判
天正九辛巳年 同国 大木駿河守胤清 判
天正九辛巳年 同国 新木三河守胤重
天正九辛巳年 同国 横瀬伊勢守保廣
天正九辛巳年 同国 横瀬弾正忠恒廣
天正九辛巳年 同国 佐賀掃部介整満
天正九辛巳年 同国 佐賀美濃守久次
天正九辛巳年 同国 佐賀筑後守長弘
天正九辛巳年 同国 寺田弾正左衛門尉吉次
天正九辛巳年 同国 寺田出雲守長尚
天正九辛巳年 同国 横瀬源太左衛門尉貞廣
天正九辛巳年 同国 松井主税助(ちからのすけ)廣吉
天正九辛巳年 同国 木屋長門守満吉
天正九辛巳年 同国 鮎川筑後守安勝
天正九辛巳年 同国 安富斎朝直
天正九辛巳年 同国 遊座右京充廣直
天正九辛巳年 同国 泉勝坊光音 」
先ず、高野山の宝蔵院に、治胤は高祖平将門の位牌を納め、我等子孫の永代相違ないよう、各々連書して結束する旨を誓っています。この史料から「相馬当家系図」(大阪市在住の小田原相馬氏の子孫の蔵書p.233)には次の文言が記載されております。「相馬譜代家臣為頭者計(相馬治胤・高井胤永・相馬胤房を除く)・「巳下連判者(十九人の名前を記す)。天正九巳年高野山右連判之者共、只今諸大名江罷出ル、下総相馬子孫有之候者御座候。」菅生越前守胤貞・筒戸小四郎胤文・大木駿河守胤清・新木三河守胤重は、相馬氏の通字の「胤」を用いていますので、相馬一族かと思われます。新木三河守胤重は、元和八年(一六二二)「相馬則胤覚書」にある荒木村(我孫子市新木)住人、相馬蔵人佐則胤の先祖でしょう。注目すべきは、当時の実名が書いてあることです。残念ながら、宝蔵院が焼失してしまったため、位牌の確認は事実上不可です。
ただし、村上氏のお話ですと。高野山調査の折、宿坊の人の話ですが、火事の折、位牌は運び出されて、今は金剛峯寺で保管している由です。明治時代の広瀬渉氏も同寺を訪ねたかも知れません。
ところで、戦国時代の真盛りに高野山登山が可能だったのでしょうか。時代的に無理です。高野聖たちが守谷に来て勧進したのでしょう。