天正十二年(一五八四)、先に越後の謙信が没し、甲斐の武田氏が滅び、周囲から何の脅威も無くなった氏直は、先代が達せられなかった下野国征服を謀らんがため、北条家の威信を賭けて韮山城の氏規(うじのり)を除く一族すべてと、可能な限りの他国衆を総動員して下野へ兵を進めました。この北条軍について、佐竹家の客将太田三楽斎は、天正十二年(一五八四)五月二十七日付け書状で「野州藤岡と号す地に於いて、御対陣に及ばされ候間、沼へ双方共陣し、城を構えること同前、敵陣より欠落の仁数多(あまた)候、返り陣たるべきの由申し候、但し、南衆(北条軍)の計儀の調い難く候、敵・味方共に大軍也、南衆を無衆の様に及ばる見方も候、相・武・両総・上・房の衆、何れも自身と聞こえ候」(「太田道誉書状写」/『歴代古案』)と、返り忠(裏切)の情報は策略かも知れないと疑っています。相模・武州などの領主自身が参陣しているという情報も得ていて、情報戦の凄まじさが窺いしれます。『奥羽永慶軍記(おううえいけいぐんき)』によれば、北条方八万余、佐竹方二万余と伝えます。二月、北条軍は宇都宮城下に入り火を放って外郭を燃やしました。急遽、宇都宮国綱は伯父の佐竹義重に援軍を要請し、義重は近隣諸将に軍勢催促を呼びかけました。佐竹に呼応した反北条方は常陸・下野・陸奥から、その数二万といいます。「国典類抄(こくてんるいしょう)」/『茨城県史 中世編』によると、この時佐竹軍に加わった武将たちの鉄砲保有数の記録が掲載されています。それによると、宇都宮の旗本(三百挺)・多賀谷重経(千挺)・結城晴朝(三百挺)・水谷正村(みずのやまさむら)(二百挺)・下野の皆川(三百挺)・壬生(二百挺)・芳賀(二百挺)・佐竹一族(千四百挺)・常陸の江戸(五百挺)・真壁(二百挺)・額田(二百挺)・会津(三百挺)・岩瀬(百挺)白川(百挺)など会津勢も加わり総数八千挺以上とわれ、長篠の戦の三千挺を遙かに上回る数でこの時期、関東・陸奥の鉄砲数には、ただただ驚きです。
沼尻(栃木市藤岡地域)の対陣は、北に聳える三毳(みかも)山(栃木市岩舟町)とその周辺にある越名(こえな)沼(佐野市越名町)に双方とも陣城を構えて対陣しますが、ともに戦場での決め手に欠き、膠着状態になっていました。対陣は二ケ月にも及びます。
ちょうど、この頃、尾張では徳川家康と羽柴秀吉が対陣していました。世にいう「小牧・長久手合戦」です。時期が同じため、氏直と家康は連動していたとされます。だが、佐竹・多賀谷・太田などは、先年から秀吉と誼を通じており、つまり、関東の局地戦ではなく、全国的注視の中での合戦となっていました。そのため、対陣中にも拘わらず、東義久や梶原政景は秀吉に沼尻合戦の経過を報告しています(「羽柴秀吉書状」/『奈良文書』・『潮田文書』)。韮山(韮山市)に残った北条氏規も、家康方の酒井忠次に対し小牧の様子を訪ね、沼尻の戦況について報告しています(「北条氏規書状」/『田島文書』)。
北条方は、岩舟山を乗っ取り反北条方の退路を押さえましたが、上杉勢が上野国境まで押し寄せて来たのに臆したか(「羽柴秀吉書状」/『土田文書』)、結局、七月二十三日、和睦し兵を引きました。しかし、講和直後に北条方が約束を破って金山城(太田市金山町)と館林城(館林市城町)を攻めました。
「沼尻合戦」の原因を作った由良国繁(くにしげ)・長尾顕長(あきなが)兄弟の返り忠を許せなかったのでしょう。佐竹義重も裏切った梶原政景(まさかげ)の返り忠を許せなかったのでしょう。佐竹義重は裏切った梶原政景の小田城を攻めました。その後も、宇都宮国綱(くにつな)と那須資晴(すけはる)が激突し、壬生義男(よしお)が返り忠で北条方へ鞍替え、下野皆川城(栃木市皆川城内)の皆川広照(ひろてる)もとうとう北条氏政・氏直に帰属しました。関東の戦国は裏切りの歴史で、その関東も豊臣秀吉の「天下統一」に飲み込まれて行きます。
この沼尻対陣を、斎藤愼一氏著『戦国時代の終焉』では、豊臣政権による関東領国化のきっかけと位置付けしています。この古戦場について、江戸時代、秋田藩の関係者が、実際に古戦場を踏査して描いた絵図が、「野州太田和(おおだわ)御陣場絵図」として秋田県公文書館に遺されています。同図に、義信(宣(のぶ))公御本陣や氏直本陣、御陣場などが描かれています。
沼尻古戦場(栃木市藤岡町太田和)
正面が三毳山、右が岩舟山
旧太田和村の小字に、「陣場」があり、古戦場だったことを物語っています。
ところで、相馬治胤・高井胤永兄弟が、この合戦に参陣したという史料は見出せませんが、北条方の動員数から見て恐らく加勢したと思われます。ここに、年欠ですが胤永宛北条氏直の感状があります。
「今度、佐竹其の表に向かい相動く処、防戦堅固の故、早速敵退散す、心地好く、肝要至極に候、其の為使を以って申し候、仍て刀一包永(かねなが)並びに三種一荷進じ候、委細口上在るべく候、恐々謹言
九月廿四日 氏直(花押)
相馬民部大夫殿(胤永) 」
「北条氏直書状」/『広瀬晋一氏所蔵文書』
この感状を『相馬民部大夫系図』は、年次を天正元年(一五七三)としています。続けて「佐竹義重相馬郡へ発向、胤永百八十騎出、佐竹大軍追い崩し、静かに勢を引き取り其の戦功を感、北条氏直より包永刀一腰感状を賜る、包永刀兄治胤所望によりこれを賜る、其の後、北条左京大夫氏政父子、一万五千騎引率し総州へ下向、其の節、氏直、胤永一里塚に於いて馬上対顔」としています。しかし、この天正元年当時、氏直はまだ十二歳で、当主の氏政を差し置いて、感状を発給したとは考えにくく。氏直の書状初見は『小田原市史・史料編中世Ⅲ』によると、天正七年(一五七九)二月二十四日、十八歳の時です(「氏直一字書出写」/『諸家文書』)。したがって、「沼尻対陣」後の天正十二年の誤りと思います。
沼尻対陣から一ケ月後、佐竹義重は小田城の梶原政景の裏切りを許せず、政景と義兄弟である真壁氏幹(うじもと)の処に検使役を派遣(「真壁氏幹書状写」/『佐竹文書』)、そして、自ら小田調儀のため、天正十二年(一五八四)九月三日太田を出陣しました(「宇都宮国綱書状写」/『石崎文書』)。
氏直は、政景を援けるべく軍を進め、九月二十五日付書状で布川の豊嶋三郎兵衛(貞継(さだつぐ)カ)に後詰を依頼しました(「氏直書状/『賜芦文庫文書』)。結局、いくばくも無く、政景は降参しました。氏直が遠方の豊嶋氏に依頼する位だから、近くの相馬治胤・胤永兄弟にも出陣催促があったとしても不思議でありません。氏直が藤岡から小田へ転戦する場合、多賀谷の領地は避けなければならず、守谷から小田城へは小貝川・鬼怒川の青木の渡しに船橋を架け「笠間街道」を利用した方が自然です。
なお、一里塚に触れておきますと、『北相馬郡志』は、「天正元年、氏直と胤永一里塚にて対面せりという、一里塚は高井村(取手市)の下高井永山に在り、発掘して其の形跡を存せざるは遺憾なり」としています。しかし、永山の道は小路で、一万五千騎が通る道とは思えません。むしろ、この一里塚は、「笠間街道」沿いの守谷市赤法花の一里塚(市指定史跡)と思われます。赤法花は、下総国に属し、国境の小貝川の「青木の渡」を渡れば、直ぐ常陸国の青木村(つくばみらい市青木)です。