重経は、さらに兵を進め、不意を突いて足高城(つくばみらい市足高)の三の丸に侵入しました。足高城主岡見宗治は、急を告げて牛久・布川・小金に知らせる一方、吊橋を曳いて二の丸でよく敵を防ぎました。宗治の奥方も、城内の女・子供を指図して建物を壊し、火を点けて、燃えた木材を登ってくる奇襲隊に投下し防ぎました。重経は城が落ちないとみるや、足高の援軍が来る前に、さっさと兵を引き揚げました。この足高の援軍について『多賀谷家譜』では、牛久城主岡見治広・若柴城主(龍ヶ崎市)岡見伝喜カ・布川城主豊嶋貞継・小金城主高城胤則(たかぎたねのり)が応援に駆け付けたとしていますが、近隣の牛久・若柴はともかく、遠方の武将は無理とおもいます。これも戦況報告の誇大版でしょう。
翌十五年三月、重経は足高城と牛久城の中間に在る八崎(はっさき)(泊崎(はつさき)・つくば市富士見台)に砦を築きました。両城の分断と牛久城の前線基地です。この砦に対し、北条方の反応は早く、三月十四日付氏照書状に「去る九日の注進状、今日十四日、小田原に於いて披見す、仍て其の地に向かい、八崎地と号し、多賀谷取立候也、牛久よりの注進、同前に候、其の地程近くの敵の寄居、誠に苦労是非無く候」(「北条氏照書状」/『岡見文書』)とし、続いて十八日書状で、「然らば御加勢の為、高城衆・豊嶋衆を払って指し越され候」と牛久番の加勢派遣を伝えています。
このように岡見一族の指南は北条氏照が担っていました。しかし氏照自身は出陣せず、秀吉対策に忙殺されていたようで、そんな余裕は無かった様です。岡見も喉仏に刺さったトゲを自ら始末できないようでは、命運は風前の灯火でした。なお、泊崎には、弘法大師が建立した大師堂が建っており、牛久沼に突き出た尖端部にあります。牛久城や東林寺城(牛久市新地町)が沼を挟んで目の前です。『多賀谷家譜』では針崎(はつさき)と記しています。重経の戦略眼は非凡のところがあります。
重経は再び侵攻して来ました。出城の板橋城は、善戦しましたが及ばず、城主の月岡玄蕃は開城し、月岡は人質として豊田郡糟内(かすない)に送られました。岩崎城の只越尾張守は、自分の命と引き換えに城兵の命乞いをして切腹して果てました。六月、出城をすべて潰した重経は、全軍で足高城攻撃に入りました。まず、絹川(現在の小貝川)の堤を壊し城の周りを水浸しにして援軍の進路を遮断しました。足高城から寺田山城守が城門を開けて討って出て、半日の戦いで多賀谷勢の宗徒二十余人を討ち取り、この日は足高勢の完勝でした。
八月、足高の名将栗林義長が亡くなりました。
その頃、宗治の義父伝喜は、多賀谷に謀られ和議を主張しました。その条件とは、足高城を明け渡せば牛久城は安堵するとの事、宗治は諌めますが伝喜は聞かず、結局、この混乱が原因で、多賀谷勢を城内に誘うことになり、城に火を掛けられ、城内では敵味方入り乱れて白兵戦となり、挙げ句のはてに足高城は落城しました。宗治は、一時行方不明になりましたが、紀州まで落ち延びたとも伝えられます(『和歌山市・岡見徳男家文書』)。また、「岡見系図」/『安得虎子』では、天正十六年(一五八八)三月、足高落城討死としています。
足高城跡(つくばみらい市足高)
『図説伊奈のあゆみ』より転載
板橋城の南二百米にある三条院城(つくばみらい市板橋)の名前の由来は、室町から戦国時代、中山三条卿という公家が、京都からこの地の領主となって構えた城といわれています。
主郭と副郭があり、先端部に浅間神社が祀られていますが、その主郭との間に、舟入り状遺構があります。三条院城の堀や土塁の規模や構造から、戦国期に造られたようで、多賀谷重経の板橋城攻めに陣城として利用されたのではないかといわれております。
高々ちっぽけな板橋城を攻めるため陣城を築く、重経の戦略眼の秀逸さを、再認識させられます。