牛久城攻め

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 足高城を陥落させた多賀谷重経は、引き続き牛久城を攻めていました。
天正十六年(一五八八)九月十三日付で、重経は家臣の落合丹後守と石浜因幡守の二人に対し「今度、牛久衆数多討捕候刻、走り廻るの儀、奇特に候、これに依り受領の事、相意得候」(「多賀谷重経官途状」/『落合二郎家所蔵文書』・『石浜和也家所蔵文書』)と官途状を発給しています。しかし、牛久城は天然の要害に加えて、牛久番が詰めていたため攻めあぐねていました。
いきおい、泊崎城から矢鉄砲を飛ばして城方の動揺誘うも、戦況は膠着状態でした。