さらに、秀吉は村落の自力による問題解決を禁じた「喧嘩停止(ちょうじ)令」、百姓らの武装を禁じる「刀狩り令」、海上の不法行為を禁じた「海賊停止令」、それに秀吉が大名たちに対して紛争の停止と領土に関する紛争を豊臣政権の裁定に委ねるよう命じた「惣無事令(そうぶじれい)」など、「豊臣平和令」と呼ばれる号令を立て続けに発します。なお、近年「惣無事令」の存在が揺らいでいます。「惣無事令」は秀吉の東国に於ける講和の一形態である「無事」を利用し、東国大名を勢力下に置くための停戦交渉であると規定し、法令の存在そのものを否定する説もあります。
また、「惣無事令」の年代論争は諸説あり、特定は困難ですが一般的な説に従いますと、「関東惣無事令」は天正十四年(一五八六)で、「奥羽惣無事令」は、翌十五年ではないかとしています。
三粂院城跡(つくばみらい市板橋)
①「徳川家康書状写」/『持田文書』
「関東惣無事の儀に付いて、羽柴方より此の如く申し来り候、その趣は先書に申し入れ候間、朝比奈弥太郎に持た披見の為之をまいらせ候、好(よく)々御勘弁を遂げられ御報に示し預かるべく候、此の通り氏直へも申し達すべく候処、御在陣の儀候の条その儀あたわず候の処、御陣へ付け届けられ候、然るべく候様、専要に候、委細、弥太郎口上に申し含め候、恐々謹言、
十一月十五日(天正十一年カ) 家康(花押)
北条左京大夫殿(北条氏政) 」
①の家康書状は、『小田原市史』では天正十四年(一五八六)十一月付としていますが市村高男氏の『東国の戦国合戦』では、天正十一年(一五八三)十一月のものとしています。当時の秀吉の地位・立場では、この「関東惣無事」に強制力を持たせることは難しく、家康もまた秀吉の申し出を伝達したのみであったため北条・反北条方の抗争は沈静化せず、両者は「沼尻対陣」後も全面対決へと突き進んでいきました。
②「豊臣秀吉書状」/『上杉家文書』
「去月七日の返礼到来、披見を遂げ候、よって会津と伊達、累年の鉾楯(むじゅん)の由に候、天下静謐の処、謂われざる題目に候、早々無事の段、馳走肝心に候、境目等の事は、当知行に任せて然るべく候、双方自然(じねん)存分これ在るに於いては、返事に依り、使者を差し越すべく候、不斗冨士一見すべく候条、委曲その節を期し候也、
四月十九日(天正十四年) 秀吉(花押)
佐竹左京大夫殿(佐竹義重) 」
②の秀吉書状は、秀吉は、佐竹義重に対して、「天下静謐」という論理を出して、蘆名・伊達間の「無事」を実現出来るよう命じています。秀吉が南奥情勢に関与し始めることを示す史料です。
③「富田一白(いつぱく)書状」/『相馬文書』
「未だ申し通じざると雖も、啓せしめ候、然れば奥両国惣無事の儀、御書差し遣され候、路地等の儀憑(たのみ)入候、上辺に於いて御用の儀候はば、仰せ越せられべく候、相応の儀馳走せしめべく、猶、宗洗(そうせん)申入れべく候、恐々謹言、
極月三日(天正十四年十二月) (花押)(富田一白)
奥州 相馬殿(相馬義胤)
御宿所 」
③の富田一白書状は、秀吉が奥羽の諸領主に対し、「御書」を遣わすため、金山宗洗を使者として下したもので、その取次役を勤めていたのが、富田一白です。
④「豊臣秀吉書状」/『秋田藩採集古文書』
「治部少輔(じぶのしょう)(石田三成)に対する書状、披見を遂げ候、関東・奥両国まで惣無事の儀、今度(このたび)家康に仰せ付けらるるの条、異儀あるべからず候、もし違背の族やからに於いては、成敗せしむべく候、猶、治部少輔申すべく候也
十二月三日(天正十四年) 秀吉(花押)
多賀谷修理進とのへ(多賀谷重経) 」
④の秀吉書状の宛所は、本来は結城晴朝です。秀吉は関東・奥羽の諸大名に対し、金山宗洗・富田知信(とものぶ)・山上道久(やまのうえどうぎゅう)などを使者として、境目を静謐にと触れ廻っていました。しかし、関東・奥羽の大名は、自立心が高く、表向きは停戦に応ずるといいつしも、自力で領国を拡大しようとしていました。多賀谷重経の足高領侵犯、伊達政宗の摺上原(すりあげはら)(福島県磐梯町・猪苗代町)の戦、北条氏政・氏直のみるぐ名な胡桃城(群馬県みなかみ町)略奪などは、「惣無事令」違反です。
この名胡桃城略奪が秀吉の天下統一の「小田原合戦」の序章です。上野の沼田領は豊臣秀吉の分領境目の画策で、沼田領三分の二は沼田に付けて北条方へ渡し、残りの三分の一を真田昌幸に安堵、昌幸が失う三分の二相当分の代替地を家康が補償するという決定と、氏政・氏直父子のいずれかの上洛要求とが北条方に提示されました。
北条氏は不満ながら承諾しましたが、沼田城を管理する北条氏邦重臣の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が対岸に位置する名胡桃城を奪取しました。報告を受けると秀吉は「惣無事令」違反の口実を得て早速、念願の北条征伐に取り掛かります。
⑤「豊臣秀吉朱印状」/『北条文書』
「北条の事、近年公儀を蔑し、上洛にあたわず、殊に関東に於いて、雅意に任せ狼藉の条、是非に及ばず(中略)なかんずく、秀吉は一言の表裏もこれ有るべからず、この故をもって天道に相叶う者ならんや、予すでに登龍揚鷹(とうりゅうようよう)の誉れを挙げ、塩梅則闕(あんばいそくけつ)の臣となり、万機(ばんき)の政に関わる、然るところ、氏直は、天道の正理に背き、帝都に対し奸謀を企つ、なんぞ天罰を蒙らんや、古諺(こげん)に曰く、功訴(こうそ)は拙誠(せつせい)にしかずと、所詮、普天の下、勅命に逆らう輩、早く懲罰を加えざるを可とせず、来歳(らいさい)は必ずや節旄(せつぼう)を携え進発せしめ、氏直の首を刎ねるべき事、踵を廻らすべからざるもの也、
天正十七年(一五八九)十一月廿四日 (秀吉朱印)
北条左京大夫とのへ(北条氏直) 」