小田原合戦

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 秀吉は小田原攻撃にあたり、北条方の戦力調査を行い、従軍各将に事前配布されたらしく、その様子が『毛利家文書』に残されています。「北条家人数覚書」には、北条一族以下北条軍に属する各武将名が記載されており、その中に「惣馬小次郎百騎」とあります。「合せて三万四千二百五拾騎、是は氏直分国惣人数也」としています。
 また、「関東八州諸城覚書」には、小田原城を含め、九十三城が記載されていますが、守谷城は記載されておりません。さらに、天正十年頃作成されたという「小田原一手役之書立写」/『安得虎子』には「相馬殿」とあります。
 『北條五代記』・『房総軍記』には、「高井主水」、『北条記』には、「相馬は宮城野口へ、その外に相馬次郎・高井が小田原の城に楯籠る」とありますので、治胤のほかに、高井胤永も籠城していたと思われます。
 この小田原攻めは、秀吉への忠誠心を量る諸将の勤務評定の場でもありました。もちろん、参陣の有無だけでなく、進上物の多寡も評価されました。

復元された小田原城(小田原市城内)

 佐竹義宣の場合、帷(たれぎぬ)五十張・太刀一振・馬二疋・黄金五十枚、そのほか、側近の石田三成には馬一疋・黄金二十枚、増田(ました)長盛にも黄金十枚を進上しています。名刺代わりにしては莫大な進物です。だが、義宣はこの二日前、三成から「義宣御進物等の事、見苦しき候ては、更々御為に然るべからず候」と忠告されていました。
 多賀谷重経は、秀吉より武勇を賞され脇差を賜わり、かつ、結城晴朝の旗下に属するよう命じられました。地元では、結城を凌駕する多賀谷が結城への臣従は、「重経是ヲ不快ニ思ヒケレ共、当時の殿下ノ威光、其命ヲ違背スヘキ趣ニアラサリシ故」(『関八州古戦録』)、黙して脇差だけ拝領しました。やはり、足高城攻めが私戦と見做され、秀吉の不興を買っていたと思われます。
会津の蘆名(あしな)氏を滅ぼし、「惣無事令」違反の伊達政宗は、秀吉に死装束で謁見し、会津を返上し旧領(米沢)を安堵されました。
 こうして、治胤は天正十八年(一五九〇)正月、胤永ら手勢百三十騎を随え、故郷守谷を後にして小田原へ向かいました。
氏政は正月十六日付、猪俣邦憲宛書状で、「然して諸軍勢悉く打着候、諸山手に陣取り候、眼前の事、善悪に付いては安かるべく候」(「氏政書状」/『猪俣文書』)と記しているので、正月十六日までには到着し、持ち場に配備された模様です。
 治胤は、宿老松田憲秀の指揮下に入り、宮城野口(神奈川県箱根町)の防備を命じられました。
小田原城内では、城門九ツ全て、北条一族ないし重臣たちで固め鉄壁な防備を構えていました。北条氏の作戦は、実に単純で関東に散らばる一〇〇カ城の城々に合計三万五千余の兵が、完全に籠城して秀吉軍の兵を分散し、兵站線が切れた時に逆襲するというものです。
 三月二十九日の合戦初日に、山中城(三島市山中新田)が四千の城兵に対して豊臣方七万の猛攻を受け半日で落城しました。宮城野口で第二防衛線を敷いていた相馬治胤らは、押寄せる家康軍を支え切れず、小田原城へ逃げ帰っています。
 四月三日には小田原城は完全に敵に囲まれました。
 この時の様子を『北条五代記』は、こう描写しています。「諸勢は堀際まで押寄せ、後陣は山野寸土地の隙間なかれば、天に飛鳥
 も翔ける事を得ず、地を走る獣も隠れん所なし、海上には四国・九州・西海の軍船数万艘の兵船を漕ぎ浮かべ、浦の波間も見えず、ただ陸地の如し」。
 また、家康家臣の榊原康政(やすまさ)に「存の外」堅固、東西五十町(五・五キロ)南北十八町(二キロ)、廻り三里(十二キロ)、西は峨々大山と為す、東北は馬の蹄も及ばぬ深田也、南は満々と成す大海也、誠に銀山鉄壁と欺く程の地」(「榊原康政書状/『松平義行所蔵文書』)と言はしめたほど、当時、小田原城は周囲九キロに及ぶ堀と土塁の日本一の惣構(そうがまえ)の城でありました。のちに、秀吉は大坂城にこの惣構を採り入れたといいます。
 しかし、この完璧な包囲網を突破した豪傑がいました。土気城(千葉氏緑区)の酒井康治家臣の平賀某は、封鎖された小田原城まで、相模湾を七里(約二十キロ)泳いで書状を届けたといいます。その書状は秀吉の寝返り勧告状でしたが、主君の康治は北条家に他意の無い事を示すため、氏政・氏直の面前で燃やしてしまいました。
それでも、氏政はまだ疑って、康治の守備陣を厩(うまや)の辺りに移してしまったといいます。水練の達者な平賀某の懸命な努力も水泡に帰してしまいました(「土気古城再興伝来記」/『土気城双廃記』)。
 また、秀吉は始めから持久戦を覚悟しており、世にいう一夜城(別名石垣山城、小田原市早川)の築城を命じました。四月十三日付北政所(きたのまんどころ)(ねね)宛書状で、「小田原を二、三町に取り巻き、堀・塀二重に付け、一人も敵出し候」と書き送っています。
秀吉は、北条氏ゆかりの早雲寺(箱根町)を本陣としました。四月八日夜、早々と小田原城の荻窪口を守衛していた、下野皆川城の皆川広照(ひろてる)が手勢百人を連れて投降しました(「秀吉朱印状」/『真田文書』)。
四月二十一日には、山中城主だった玉縄城の北条氏勝(うじかつ)が剃髪姿で投降しました(「榊原康政書状」/『松平義行所蔵文書』)。
六月十六日には、こともあろうに、松田憲秀の長男で伊豆衆の笠原氏の養子となっていた、笠原新六郎政晴(まさはる)が調儀されたことが、次男で嫡男の直秀なおひでの注進により露見しました(『北条五代記』)。憲秀指揮下の相馬治胤も他人事ではありません。
 この包囲戦の中、関東の北条方の城も、次々陥落させられています。各地に秀吉禁制が遺されています。禁制を追う事で征討軍の進軍コースが読み取れます。征討軍の浅野長政(ながまさ)は「拙者も奥関東仕置の事を仰せ付けられ、四月廿六日小田原表を罷り立ち、武蔵国・上総国・下総国・常陸国・下野国・上野国の城々請け取り候事」「浅野(長吉(ながよし)書状案」/『伊東文書』)と語っています。従って征討軍は四月二十六日に小田原を立ち、その日の内に鎌倉に入り、翌日には江戸城を請け取っています。その後五月一日に野田に陣を張っていました。その頃迄で、征討軍の手持ちの制札が不足し、秀吉に追加を要請、五月三日付書状で百枚遣わすという返事を得ています(「秀吉朱印状」/『富岡文書』)。
 次に野田から小金に入ったと思われます。小金城主の『高城家由来書』では、五月五日に開城してぃます。その後、守谷城を接収し、佐倉城は五月十八日開城しました。ところで、浅野長政は城請け取りは、「奥関東仕置」の一環としています。城方の抵抗などは完全無視です。
ここで、守谷城近くの長龍寺所蔵の禁制(きんぜい)状を次ページに紹介いたします。
長龍寺に遺された禁制が秀吉朱印状ではなく、木村・浅野連署禁制状なので、朱印状の手持ちが無かった天正十八年(一五九〇)五月上旬ではないかと思われます。