御禁制状 土塔 長龍寺
下総国相馬庄内徳怡山
禁制 長龍寺
一、當手軍勢乱妨狼藉之事
一、放火之事
一、對寺中申懸非分儀、付麦毛
苅取之事
右條々、堅令停止訖、若違犯之族
於在之者、可處巖科者也
天正十八年五月日 浅野弾正少弼(花押)
木村常陸介(花押)
浅野長政・木村重玆連署禁制(長龍寺蔵)
六月十四日、鉢形(はちがた)城(埼玉県寄居町)の北条氏邦(うじくに)は、五月十九日より北国軍(上杉景勝、前田利家、真田昌幸)と援軍の浅野長政等、五万五千人の攻撃をうけて、城兵の助命を条件に降伏します。
六月二十三日、北条氏照がこの日のために数年掛けて築いた八王子城(八王子市)には三千人が立籠っていましたが、北国軍一万五千人に攻められ、北国軍方に千人以上の犠牲者を出す激戦のすえ一日で落城しました。
翌二十四日には、韮山城(伊豆の国市韮山)が織田信雄(のぶかつ)ら四万の大軍に囲まれ、約三ケ月間籠城していましたがついに開城します。韮山城主の北条氏規(うじのり)は小田原城に来て氏直と氏政に開城を勧めます。ここは秀吉の心理作戦の巧みさが功を奏します。
七月五日、氏直も抗しきれず、小田原城を出て降伏を願い出ました。
七月十一日、主戦派と見做された氏政と氏照、それに宿老松田憲秀と大道寺政繁(まさしげ)は切腹させられました。家康の娘を娶っていた氏直と、先に上洛して秀吉に拝謁したことのある氏規は、高野山送りとなりました。
氏直は、翌十九年(一五九一)二月、秀吉から大坂表へ呼び出され、下野足利で九千石・近江で千石拝領(『真説戦国時代北条五代』)し、合計一万石の大名に取りたてられました。しかし、氏直は疱瘡(多聞院日記)の病に侵され、天正十九年十一月四日病没しました。三十歳でした。氏直の後は弟の氏規の嫡子氏盛が継ぎ、河内狭山藩一万一千石で幕末まで存続しました。
北条方の数ある城で、唯一、武蔵国の忍城(行田市)が小田原開城まで持ち堪えました。石田三成の水攻め作戦の失敗もあって、「のぼうの城」として映画化されています。
小田原合戦後、北条方に味方した関東の領主は、御家断絶の憂き目に遭っています。相馬を始め、千葉・原・高城・豊嶋など。但し、例外の人がいます。忍城の成田氏長(うじなが)は、城内の宝物唐頭十八頭と黄金九百枚を秀吉に献上し、併せて娘を側室に差し出して、下野烏山城(那須烏山市城山)三万七千石の城主となりました。
また、太田金山城(太田市金山町)の由良国繁(くにしげ)の場合は、母の妙印尼が指図して、嫡子の貞繁らに秀吉の小田原陣に行かせ、二心無きことを申し述べさせた結果、常陸牛久で五千石賜わっています。豊臣秀吉朱印状の宛名は「ゆらなかを老母かたへ」由良国繁・長尾顕長(あきなが)の母親妙印尼(『由良文書』)です。
その後の治胤について、「相州に属し、北条家に勤め仕り、北条滅却の後、事を欲し関白秀吉公に訴訟と雖も叶わず、流牢の後、信濃守胤信の扶持を請け、旁ら遺恨散り難く、武州山手に於いて思死云々、子孫断絶」と奥州の歓喜寺所蔵の「相馬之系図」にあります。治胤は秀吉に対し御家再興を直訴したのでしょう。
治胤は、「転心斉」と号したとありますが、北条氏を裏切らなかったことを自嘲していたようで、却って、治胤の無念さが感じられます。治胤は権威を恐れず、自尊心が旺盛でした。公方奏者の芳春院宛書状に、相馬左近大夫とせずに相左治胤と署名したこと、公方の年頭行事に参内しないことなど、「プライド」、「強気」が戦乱を生き抜く弱小領主の強みです。