江戸時代に徳川将軍家と主従関係にあった旗本を直参(じきさん)旗本と呼び、大名家は幕府に憚って、旗本クラスの中級藩士を馬廻(うままわり)(平士(ひらし))と呼んでいました。大名と旗本との境界線は、石高一万石以上が大名で、それ以下が旗本です。ただし、若干の例外があり、石高の無い地を領有していた蝦夷松前の松前氏、石高五千石の下野喜連川の喜連川氏(古河公方足利氏の後裔)は、名族の故を以って、藩主とされています。一方、旗本と御家人との境界線は明確ではありません。まず、石高百石以上を旗本とし、それ以下を御家人とする説。次に御目見(おめみえ)以上を旗本とし、以下を御家人とする説もあります。御目見とは、将軍に拝謁することをいい、それを許される者たちのことを御目見以上という。ただし、御家人の中から出世し、一代限りで御目見を許され、旗本並の待遇を得ても、子孫が御目見を許されなければ周囲から旗本とは認められませんでした。
旗本は外出時の持ち物や言葉使いも御家人と異なっていました。旗本は外出時には槍を槍持に、他に中間を引き連れ、六百石級の旗本の供揃えは、主人は馬に乗り、侍二人、槍持、鋏箱持、草履取、中間などを随えていました。
元和二年(一六一六)平時の軍役が定まり、一千石の旗本には鉄砲二挺・槍五本持槍共・弓一張・馬上一騎の基準を設けられました。また、江戸に屋敷を拝領し、原則としてこの屋敷に住みました。官舎なので、幕府から命令あると、指定された他の屋敷に転居しなければなりません(相対替(あいたいがえ))。拝領屋敷(はいりょうやしき)の規模は、石高によって違いがありました。寛永二年(一六二五)の規定では、七千石以上で二、五〇〇坪、二百石~三百石でも六百坪という広大なものでした。江戸市中の居住空間は、「武家地」(約六〇%)・「寺社地」(約二〇%)・「町地」(約二〇%)に、「士工商」の身分によって厳格に住み分けられていました。江戸中期の人口は、武士町人とも約五十万人と推定されるので、町人は狭い住居に密集地していたといえます。