初代相馬秀胤(ひでたね)(?~一五九七)

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 小次郎、号春山、母は某氏、東照宮より下総国の本領相馬郡のうちに於いて五千石を賜ふ、文禄元年朝鮮陣の時供奉し、肥前(名護屋(唐津市)にいたる(『寛政譜』)。仮名は小次郎、信濃守、号春山、海禅寺の位牌に「春山華公大禅定門」、慶長二年正月十五日死(『相馬当家系図』)。治胤ヨリ貞胤迄、桓武天皇ヨリ三十八代、権現様ヘ天正七己丑年ヨリ仕エ奉リ、信濃守ヨリ相続キ当御代迄五代仕エ奉ル也、(『相馬左近・右近系図』)。当代相馬郡の内にて五千石を賜り、信濃守を受領しました。相馬氏も新たな時代を迎えたことになります。秀胤は下総相馬郡内の知行地に居宅を構えていたと思われますが居住地については全く史料が残されていません。拝領屋敷の記録もありません。ところで、『相馬当家系図』では、「秀胤天正七寅(トラ)年、権現様(家康)へ仕え奉り、御知行五千石賜り、信濃守と改む」。また、『左近・民部系図』では、「治胤代々貞胤迄テ桓武天皇ヨリ三十八代也、権現様へ天正七年己丑(キチュウ)ヨリ仕エ奉リ、信濃守ヨリ相続キ、当御代迄五代仕エ奉ル也」としています。両系図共、秀胤が家康に仕えた年を天正七年としています。天正七年一五七九の干支は、寅でもなく己丑(つちのとうし)でもなく己卯(つちのとうさぎ)です。当時の武士が、干支(えと)を間違えるとは少し解せません。

名護屋城天守台址(唐津市鎮西町)

 この天正七年説は、『千葉伝考記』にも似た様な記事があります。同書に「天正七己卯年、平将門廿九世相馬長門守守胤(もりたね)、下総を没落し、遠州浜松に至り、神君(家康)を拝して、始めて御家人に列し、天正十八庚寅年、本国に於いて采邑(領地)を賜る」。将門から数えて二十九代目は、『相馬当家系図』では信濃守秀胤に当たります。長門守守胤はどの系図にも見出せず、実在の人かどうか確認できません。
 ところで、「相馬之系図」/『歓喜寺所蔵』に、治胤は子孫断絶とありますが、秀胤を胤晴の子としています。

 

 しかし、秀胤と胤信の整胤兄弟説には、少々無理があります。
胤晴は「河越夜戦」で戦死したのが天文十五年(一五四六)四月、整胤が生まれたのが天文十三年(一五四四)、父である胤晴は、整胤の弟である直将を含めて、秀胤、胤信の三人を二年間で生ませる事が出来るか。側室に生ませれば可能ですが少し疑問です。
 また、『千葉伝考記』の記述から、ある仮説が成り立ちます。「永禄九年(一五六六)正月、守胤は兄整胤が治胤に殺された時、難を逃れて行方をくらます、雌伏十三年目の天正七年(一五七九)、守胤改め秀胤は、家康の臣下となって数々の戦功を挙げ、天正十八年(一五九〇)家康の江戸入府に随い、旧領下総相馬郡にて五千石を拝領する」。このように考えますと、『歓喜寺系図』に正当性が生じます。この『千葉伝考記』も、同系図に惑わされたのではないでしょうか。常識的には『寛政譜』に従い、治胤の嫡子秀胤の仕官は、「小田原合戦」後のことと思います。早くても、天正十八庚寅年でしょう。なお、秀胤は、天正年中(一五七三~九二)守谷市立沢の香取神社を創建したと伝えられています。