名護屋城天守台址(唐津市鎮西町)
この天正七年説は、『千葉伝考記』にも似た様な記事があります。同書に「天正七己卯年、平将門廿九世相馬長門守守胤(もりたね)、下総を没落し、遠州浜松に至り、神君(家康)を拝して、始めて御家人に列し、天正十八庚寅年、本国に於いて采邑(領地)を賜る」。将門から数えて二十九代目は、『相馬当家系図』では信濃守秀胤に当たります。長門守守胤はどの系図にも見出せず、実在の人かどうか確認できません。
ところで、「相馬之系図」/『歓喜寺所蔵』に、治胤は子孫断絶とありますが、秀胤を胤晴の子としています。
しかし、秀胤と胤信の整胤兄弟説には、少々無理があります。
胤晴は「河越夜戦」で戦死したのが天文十五年(一五四六)四月、整胤が生まれたのが天文十三年(一五四四)、父である胤晴は、整胤の弟である直将を含めて、秀胤、胤信の三人を二年間で生ませる事が出来るか。側室に生ませれば可能ですが少し疑問です。
また、『千葉伝考記』の記述から、ある仮説が成り立ちます。「永禄九年(一五六六)正月、守胤は兄整胤が治胤に殺された時、難を逃れて行方をくらます、雌伏十三年目の天正七年(一五七九)、守胤改め秀胤は、家康の臣下となって数々の戦功を挙げ、天正十八年(一五九〇)家康の江戸入府に随い、旧領下総相馬郡にて五千石を拝領する」。このように考えますと、『歓喜寺系図』に正当性が生じます。この『千葉伝考記』も、同系図に惑わされたのではないでしょうか。常識的には『寛政譜』に従い、治胤の嫡子秀胤の仕官は、「小田原合戦」後のことと思います。早くても、天正十八庚寅年でしょう。なお、秀胤は、天正年中(一五七三~九二)守谷市立沢の香取神社を創建したと伝えられています。