二代相馬胤信(たねのぶ)(生没年不詳)

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 童名御丸、小三郎、信濃守、従五位下、号中岩、海禅寺の位牌に「中岩箭公居士」、実は治胤が男、母は某氏、兄秀胤が嗣となり。天正十七年より東照宮に仕え奉る(『寛政譜』)。秀胤早世之後、跡継ぐ、相馬郡内にて三千石余領す、源秀忠公の時勤仕。早世(『歓喜寺系図』)。胤信は早世とあるが、従五位下信濃守を叙任していますので、元服は済んでいます。
 『歓喜寺系図』の治胤の項に、「治胤は流牢の後、信濃守胤信の扶持を請け、武州江戸山手に於いて思死云々、子孫断絶」とあり、胤信は江戸で拝領屋敷に居住していたかに思われますが、当時の絵図では、拝領屋敷は確認できません。