三代相馬盛胤(もりたね)(生没年不詳)

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 小次郎、今の呈譜(ていふ)小三郎、信濃守、従五位下、号天崇(てんすう)、海禅寺の「旗本相馬氏の位牌」(P.199参照)に「光勝院殿海徳壽慶大居士」、実は治胤が男、母は家臣谷上和泉守永久が女、胤信が嗣となる。某年はじめて東照宮(徳川家康)に拝謁(はいえつ)し、のち台徳院(だいとくいん)(二代将軍徳川秀忠)殿につかえたてまつる、其のち従五位下に信濃守の叙任し、某年死す。下総国高野郷の海禅寺に葬る、嗣なきにより采地(領地)をおさめらる、兄胤信が養子(『寛政譜』)。是より以下、他家より名字を継ぐ、本知減少千石余を領す。胤継以下より下総相馬郡に住む(『歓喜寺系図』)。
 この胤信・盛胤の両名について、慶長五年(一六〇〇)九月の天下分け目の決戦に、旗本たちは出陣するのが当たり前で、そのために家禄を貰い(御恩)、その替りに軍役(奉公)の義務がありました。この「関ケ原の戦い」には、未だ一定の基準は無かったが、十四年後の「大坂の陣」の軍役によると、一千石の旗本は、鉄砲一挺・弓一張・槍一本・旗一本・馬上が一騎が義務付けられています。しかも、合戦で手柄を立てれば、加増が充分期待できました。この頃二人共、出陣したくても出陣できない理由があったのではないでしょうか。胤信・盛胤は、病身かあるいは没していたとも考えられます。この辺に、相馬家の不運がありました。関ヶ原では、負けた西軍が没収された所領は四百万石余に及び、家康も味方には大番振る舞いをしています。関ヶ原は、江戸時代、最大で最後の加増好機でした。胤信・盛胤共、軍役を全うできなかったとすれば、減封・無嗣断絶の処分も肯けます。
 最後の旗本となった相馬祚胤は、江戸時代末の嘉永四年(一八五一)二月、地元守谷の海禅寺に「旗本相馬氏の位牌」を再建奉納しています。この位牌は、十代相馬左近繋胤(つなたね)・十一代相馬邦三郎将枝(まさき)・十二代相馬左衛門祚胤(むらたね)の実名(諱)が刻まれています。この三名の名は、『寛政重修諸家譜』にも時代があたらしいので当然無く、唯一、最後の相馬氏三代の実名が記載されている大変貴重なもので、県指定文化財級です。ルビは筆者の勝手次第です。

旗本相馬氏の位牌(海禅寺所蔵)

「旗本相馬氏の位牌」は次ページのように観音開きの厨子に納められており、両扉内外に相馬家の家紋「つなぎ馬」が描かれています。位牌の上段中央にも、「つなぎ馬」紋があり、左右中央部に、やはり、下総相馬氏の家紋「三つ茶の実」施されています。この「三つ茶の実」紋が使われていたのは、寛政十一年発行の『寛政呈書万石以下御目見以上国字分名集』の相馬是胤(これたね)の項に、家紋「維馬(つなぎうま)」・「丸の内三葉の実」と掲載されています。『寛永諸家系図伝』では、家紋「繋馬(つなぎうま)」だけだったのに対し、是胤は、『寛政重修諸家譜』の原稿を幕府へ提出した際、家紋として「維馬」と「丸に三茶実」を届けました。是胤は、奥州相馬家に遠慮して、「九曜紋」の代りに「三つ茶の実」を提出したと思われます。

三つ茶の実

 位牌表面には、相馬盛胤以下将枝までの近世旗本十一名の戒名が記されています。裏面には、一人多い祚胤まで朱書きで記されています。このことから、この位牌は祚胤の逆修を祀ったものとされ、祚胤が嘉永四年(一八五一)再建したものです。
 
    前信州勅吏
光勝院殿     海徳壽慶大居士(相馬盛胤(もりたね))
    従五位下
總国院殿剛節宗金大居士  (相馬政胤(まさたね))
大照院殿月庵宗明大居士  (相馬貞胤(さだたね))
勝千院殿節巌良忠居士   (相馬要胤(よしたね))
嶺雲院殿閑翁全徹居士   (相馬信胤(のぶたね))
真常院殿保叔良胤居士   (相馬保胤(やすたね))
歸雲院殿了岳道機居士   (相馬利胤(としたね))
法心院殿了覺一無居士   (相馬是胤(これたね))
弓影院殿心境幼生居士   (相馬敏胤(としたね))
霍林院殿仙曹智雄居士   (相馬繋胤)
深霜院殿秋岳元涼居士   (相馬将枝)
     (裏 面)
光      十八日    初代   相馬信濃守平盛胤 盛胤の没年は、何故か書かれていません。
總 明暦二丙申年五月五日  二代目  相馬左近 平政胤
大 明暦二丙申年八月晦日  三代目  相馬小次郎平貞胤
勝 元禄三庚牛年三月廿八日 四代目  相馬小次郎平要胤
嶺 正徳五乙未年九月廿三日 五代目  相馬小次郎平信胤
真 元文元丙辰年五月十二日 六代目  相馬小源太平保胤
歸 享和四甲子年正月廿四日 七代目  相馬左近平利胤
法 享和四甲子年正月廿四日 八代目  相馬左兵衛平是胤
弓 文化七庚午年五月十三日 九代目  馬小太郎平敏胤
霍 文政二己卯年六月廿四日 十代目  相馬左近平繋胤
深 天保十二辛丑年九月十日 十一代目 相馬邦三郎平将枝
  嘉永四辛亥年二月    十二代目 相馬左衛門平祚胤再建之
                       嘉永四年二月と何代目及び、相馬左衛門平祚胤再
                       建之の文字は朱色です(逆修を意味します)。
 
 初代の旗本は、相馬秀胤(ひでたね)が自然ですが、秀胤・胤信(たねのぶ)は牛込通寺の松源寺(しょうげんじ)(現、東京都中野区)に葬られたので、海禅寺に葬られた盛胤(もりたね)を、初代扱いしたと思われます。秀胤・胤信の位牌は、「中世相馬氏の位牌」の中にあります(P.142参照)。
ただし、『寛政重修諸家譜』によりますと、二代目の政胤(まさたね)の没年は、明暦元年(一六五五)正月五日、七代目の利胤(としたね)は、矩胤(のりたね)と称し、没年は天明六年(一七八一)九月二十三日で、年七十七、法名道機です。