四代相馬政胤(まさたね)(?〜一六五五)

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 小次郎・今の呈譜小三郎、左近。母は盛胤におなじ。盛胤が家たゆるのゝち、幼稚たりといへども旧家たることをおぼしめされ、旧地相馬郡のうちにおいて千石の地を賜ひ、台徳院殿(二代将軍徳川秀忠)につかへたてまつり、成長のゝち「大番」となり、大坂両度の御陣に供奉す、其のち致仕し、明暦元年(一六五五)正月五日死す、法名宗金、葬地盛胤におなじ(『寛政譜』)。
 盛胤の項に、「実は治胤が四男、母は谷上(やがみ)和泉永久が女、胤信が嗣となる、盛胤、嗣なきにより采地(領地)を収めらる」とあります(『寛永譜』)。
 一方、政胤の項に、「盛胤が家絶えるの後、幼稚たりといえども旧家たることを思し召され、旧地相馬郡の内に於いて、千石の地を賜る、将軍秀忠に仕え奉り、成長の後、大番となり、大坂両度の御陣に供奉する、その後致仕し、明暦元年正月五日死す、法名宗金、葬地盛胤に同じ」
 さらに、貞胤の項に、「実は大岡貞惟が二男、母は盛胤が女、政胤の養子となる、某年家を継ぎ、元和九年(一六二三)将軍家光にまみえ奉り、寛永四年(一六二七)大番に列し、同十年(一六三三)新恩に二百石を賜わり、すべて千二百石を知行す」とあります。ここで問題になるのが何故政胤が盛胤の養子に成り得たかです。
 そのヒントは、次の「相馬小次郎知行にされたき願書」/『谷上一美家文書』にあります。
 安永五年(一七七六)、信胤の家臣谷上勘兵衛(かんべい)の甥金右衛門からお役所に命を懸けた願書が提出されました。
「恐れ乍ら書付を以って御訴訟願い上げ奉り候、小林孫四郎様御代官所、下総国猿島郡弓田村金右衛門申し上げ候、相馬小次郎家来谷上勘兵衛と申す者、私の伯父にて御座候、右勘兵衛儀、去る宝永七年(一七一〇)寅の二月、主人小次郎知行所葛飾郡庄内領山崎村の百姓と出入に付御評定所に於いて御詮議の上、勘兵衛不届の由にて牢舎を仰せ付けられ、同年四月牢死仕り候、(中略)右小次郎四代以前子絶仕り、家潰し罷り在る候処、有り難くも、日光御社参の節、私先祖五代以前の者、継図訴状差上げ候らえば、高家の筋目故にて知行千石下し置かれ、その以後、弐百石御加増、都合千弐百石の領知を拝し罷り在る候(後略)」。この中で金右衛門は、安永五年に願書を出した理由として、先例の吉事にとして倣ったとありますが、この何月何日かが問題です。日光社参は都合十回挙行されていますので参考になりません。
 ただし、本文中に「小次郎四代以前断絶仕り家潰す」とありますが、小次郎信胤の四代以前は、盛胤に当たります。したがって、旗本の家を継いだのは政胤になります。政胤の母は「盛胤に同じ」と有りますが、治胤の子供でしたら盛胤は「嗣無しで断絶」になりませんので、側室②は再婚して某氏との間に政胤が生まれたと想像します。谷上家が政胤を推す理由は、母が谷上和泉守永久の娘だったからでしょう。
 なお、盛胤の妹は、『寛政譜』に「大岡権兵衛貞惟が妻」とあり、貞胤の項に「母は盛胤が女」とありますので、同一人物と思います。
 旗本となった相馬秀胤の知行地は、当初五千石を拝領していましたが、次の胤信の知行地は三千石、さらに盛胤の知行地は千石と、家禄が減らされています。兄弟相続とはいえ、早世の引継きで減俸処分と思われます。
なお、秀胤が賜った五千石の地は、旧相馬郡の筒戸・新宿・寺原・平沼・御出子村であった可能性が高いです。
筒戸村には、守谷城の支城である筒戸城が在ったので、その周りには、帰農した元家臣も大勢生活していたと思われます。
 さらに、慶長六年一六〇一頃、一色照直(てるなお)が移って来る前の、相馬郡内の大木・大山・板戸井・大柏村(以上守谷市)菅生・大塚戸村(以上常総市)も、秀胤の知行地であったと思われます。
 慶長二年正月、秀胤没し弟の胤信が遺跡を継ぎましたが、その時、収公された二千石は一色氏に与えられました。さらに、盛胤も二千石収公されましたが、残された一千石は、筒戸村一ケ村と思われます。政胤が再興した一千石も、やはり筒戸村と思われます。
寛永二年(一六二五)の「朱印改め」で、政胤・貞胤が弓田(ゆだ)・馬立(またて)村坂東市弓田・馬立へ移った後、筒戸村は南相馬郡の本多正貫(まさつら)が引き継ぎました。「本多氏寛永二年朱印状写」/『我孫子市史』に「相馬村(郡)筒戸村千九拾一石五斗」とあります。
 
治胤の正妻は、胤晴の娘で、戒名は「中世相馬氏の位牌」(P.142)にあるように、「桃林院殿芳菴妙英大禅定尼」と思われます。逝去は、天正十一年(一五八三)六月八日とご住職に教えていただきました。したがって、秀胤の母と考えます。二男の胤信は、生年は不明ですが、秀胤と歳が離れているようで、母は某氏とあり、側室①の子です。
 四男の盛胤の母は、谷上和泉守永久の娘(側室②)で、問題は、政胤の父は誰か、治胤でない事は確かです。ここでは某氏にして置きます。
この治胤の子等の関係を整理した系図を次のページに提示します。江戸時代初期から、相馬氏の系図が乱れておりまます。

治胤の子等の関係図

 下総相馬氏と将門の子孫伝承が結びつく「相馬則胤(のりたね)覚書」/『続群書類従第六輯上』に注目します。
 「相馬則胤(のりたね)覚書」
「相馬ハ両流アリ、根元ハ子孫平親王将門八州ヲ併呑シテ、総州相馬郡ニ都ヲ立テ、伯父常陸大掾国香ヲ討チ、承平年中、追討使ノ為ニ討タレル、兄弟子孫アルイハ誅セラレ、アルイハ討死シ、若輩ハ配流也、将門ノ孫文国ノ時ニ免ゼラル、配所ヨリ帰リ常州ニ移住スル、ソノ後一族ヲ馮(タノ)ミ、総州相馬ニ帰ル、子孫三四代ニテ断ツ、相馬小次郎師国ニ男子無ク、千葉介常胤二男師経(常)ヲ養子トシテ名ヲ譲ル、師常ノ子孫数多(アマタ)アリ、(中略)右の一巻は元和八年(一六二二)の秋、大久保加州大守(大久保忠職(ただもと))の御内、相馬長四郎(胤勝(たねかつ))所望に任せ、総領小次郎(政胤)殿、御家伝の書を以って之を写し、長四郎に与え畢(おわんぬ)、
                               総州相馬内荒木村住人
                                相馬蔵人佐(くろうどのすけ)則胤法名栢室道固
                                          七十歳書写       」
 右の覚書は、元和八年頃、下総相馬氏の一族である相馬則胤が書き写した書状で、中身は、騎西藩主の大久保忠職(ただもと)の家臣相馬胤勝(たねかつ)が、相馬家の御家伝書の写を所望し、当主で四代旗本の政胤から写を与えられた事を記したものですが、文中に「文国」の名が出てきますので、この頃既に、「信田(太)系図」が存在していたことが窺われます。
 注目したいのは、元和八年(一六二二)当時、下総相馬氏の総領政胤は「御家伝書」を秘蔵していたことです。
 政胤は相馬家に養子で入りましたが、なかなか活躍しています。相馬則胤の奥書に、総領小次郎とありますが、年代から考えて政胤を指しています。江戸幕府から『寛永諸家系図伝』の原稿を提出するよう求められた時、奥州相馬氏は下総相馬氏に系図を見せるよう求めてきました、その顛末を奥州相馬氏側の史料で確認します。
「相馬小次郎殿出入中絶之事」/『奥相秘鑑』
  「寛永十八年(一六四一)二月、将軍家光公、諸家ノ系図上覧ニ入ベキノ由、太田資宗(若年寄)ヲ奉行トシテ諸大名・旗本迄其ノ趣ヲ告玉フ、当家ハ義胤ノ御代也、其ノ頃、相馬ノ家譜・官録・勲功・忠義ノ巻委(つまびらか)ナラズ、コレニヨリ諸蔵文庫ヲ尋ルトイヘドモ見エズ、ココニ天守ノ梁ニ結ツケ置タル包物有リ、筆史中津吉兵衛コレヲ開キ見ルニ、金ノ輪九曜ノ御紋ツキタル菱皮籠ナリ、内ニ八幡大菩薩ノ文字ノ旗、証文雑文百余通、ソノ外古代ヨリ伝来品々有リ、ソノ証文ヲ以テ、考合スレバ平親王巳(いらい)来七百年ニ及テ連続一代モ闕隔ナシ、然ルトイヘドモ、相馬小次郎ノ家譜不審(いぶかし)、老臣熊川左衛門、再三熟談シ漸(ようやく)略譜ヲ観覧シ、支流相違ナキニ依テ、其の系譜ニ同ジセズ、千葉ノ家譜ヲ表ニ立テ、数通ノ証文ヲ差添、コレヲ呈上ス、其ノ後、彼等ノ老臣左衛門ニ対シ、御家ノ系図・証文懇望幾度ナラズ、左衛門終ニ一覧ヲ許サズ、コレニ依リ無興ニテ、自然ト中絶、予後年ニ及ンデ寛永記ノ写をヲ拝見、彼家ヨリハ将門ヲ元祖トシテ、信田ノ連続に記ス、御家の系統ヲバ何レトモ記サレズ」
 
 幕府の諸家の系図編さん事業に当り、奥州相馬氏の混乱ぶりが知れます。老臣熊川左衛門が、下総相馬氏に系図見せろと要請しましたが断られ、しかたなく、千葉系図を表に立てて提出しました。その後、下総相馬氏の『寛永譜』を拝見した処、将門直系の『信田系図』を見てビックリし、御家の系図(千葉系図にある、良文の嫡子忠頼が将門の跡を継ぐ)は無視されたとしています。それにもかかわらず、その後の奥州相馬氏は将門の子孫を強調し始め寛永二十一年の奥書のある歓喜寺所蔵『相馬之系図』では、信田系図を併記して、将門の正統之系図を継ぐとしています。この事件から、下総相馬氏との仲は、自然に中絶したとしています。
 この時の下総相馬氏の当主は政胤で、彼は二十年前の元和八年(一六二二)、胤永の子騎西藩士相馬胤勝に「御家伝書」の写を渡しているのにも拘わらず、寛永十八年(一六四一)の奥州相馬氏の要請を拒否しています。
 政胤は、二代将軍秀忠に仕え、成長した後、大番となる。大番は合戦時には先鋒となって戦う武官で、いずれも旗本の士、またはその子弟中、家柄と武芸によって選抜されたもので、名実ともに幕軍の精鋭でした。政胤は慶長十九年(一六一四)の「大坂冬の陣」、翌年の「大坂夏の陣」にも参陣しました。政胤も奮戦したでしょう。しかし、戦後の論功行賞はありませんでした。没収した豊臣領は、摂津・河内・和泉三ケ国の六十五万石余で、ごく限られた大名しか恩賞は賜れませんでした。
 政胤は、元和九年(一六二三)四月七日付で、佐賀主水宛に「此度官途かんとの儀望み候間、其の意に任せ候、何れも目出度く、猶珍重に存じ候」(「相馬政胤官途状」/『佐賀喜平家所蔵文書』)。佐賀主水佐は治胤の家臣でしたが、その子孫が身分保証のため官途を申請し、政胤が許可したものと思われます。
 この年の十一月二十二日、政胤は養子の貞胤を家督相続者に決め、三代将軍家光に拝謁させています。その後しばらくして、政胤は貞胤に家督を譲り大番を辞しました。彼は「旗本奴」の仲間に入ったようです。
 旗本奴は寛永十七年(一六四〇)には百人いたとされ、大小神祇(じんぎ)組・鶺鴒(せきれい)組などと称し、徒党を組んで異相と奇行で人目を驚かして喜んでいました。また、町奴と喧嘩を繰り返し、明暦三年(一六五七)には、幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)が水野十郎左衛門に殺され、水野もまた寛文四年(一六六一)に切腹させられています。江戸後期の文化三年(一八〇六)頃、著された編者不詳の『久夢(きゅうむ)日記』に、男伊達(おとこだて)の名前三十九人が列記され、その中に「相馬小次郎、よしや組、酒の肴にたばこくらい給ふなり」と紹介されています。政胤は、よしや組、別名白柄(しらつか)組に属していたと思われます。
 この『久夢日記』は、延宝二年(一六七四)六月の条に書かれていますが、その時の見聞を記したのか定かでありません。時代からいうと、次の貞胤の可能性もありますが、貞胤は亡くなるまで大番職にありました。その点、政胤は若い時から隠居し、亡くなるまで三十年間位遊んでいますので、旗本奴は政胤こそ相応しいのではないでしょうか。