第五代相馬貞胤(さだたね)(?~一六五六)

208 ~ 211 / 330ページ
 小次郎、小太郎、実は大岡権兵衛貞惟(さだこれ)が二男、母は盛胤が女、政胤の養子となる、某年家を継ぎ、元和九年(一六二三)十一月二十二日、はじめて大猷院(たいゆういん)殿(三代将軍徳川家光)にまみえたてまつり、寛永四年(一六二七)大番に列し、十年二月七日下総国相馬郡のうちにおいて、新恩二百石をたまはり、すべて千二百石を知行す、明暦二年(一六五六)八月晦日死す、法名宗明、牛込長延寺に葬る(『寛政譜』)。
 母は盛胤の娘とあるが、盛胤に子が無く、治胤の娘の誤りです。『寛政譜』に、「治胤女子、大岡権兵衛貞惟が妻」とあります。
父は大岡貞惟、彼の名は不詳、『小田原衆所領役帳』にもその名は見出せません。大岡貞惟は、本国・生国とも下総とあるので、
多分、治胤の家臣の一人かと思われます。
 この頃、養子が家督を相続するのは大変な時代で、幕府に嫡子届を提出し、許可されれば将軍に拝謁する、すなわち、「御目見(おめみえ)」に出る、あとは召し出されるのを親元で待つ。御目見を済ませなかっただけで、嫡子が断絶させられた大名も居たほどです。十二年後の寛永十二年(一六三五)に制定された「旗本御法度」では「跡目の儀、養子は、存生の内、御意を得るべし」と制限しています。
寛永四年(一六二七)、貞胤は養父政胤と同じ大番に列しました。従って、貞胤が家を継いだのは、元和九年(一六二三)から寛永四年の間です。
おそらく、寛永二年(一六二五)の「寛永の朱印改め」の時か、この大番の交替時でしょう。この寛永二年の朱印改めで、政胤あるい
は貞胤は、旧知相馬郡の知行地から猿嶋郡のだ弓ゆ田・馬立またて村(坂東市弓田・馬立)へ知行地替させられました。
 のちの元禄十一年(一六九八)四月に書かれた「寺方差出」裏書により、弓田村の知行期間を知ることができます。
 「       寺方差出之事
       (前略)
   右は、相馬小次郎様御領分七拾四年目、元禄十一年寅三月、関宿様江相渡り申候、
        元禄十一年寅四月   正光院・慈光院・光明寺・神主作左衛門
   <裏書>
  「右ハ相馬小次郎様御領分七拾四年目、元禄十一年寅三月関宿様江相渡り申候、
   其節書上ケ申候、寺方指出ニ御座候、まき野備前守様関宿ノ御城主様    」
                  「田中泰一家文書」/『岩井市史資料近世編Ⅱ』所収
 
 寺方差出とは、寺領を記し領主に提出したもので。この場合は弓田村内の寺、すなわち、正光院(しょうこういん)・慈光院(じこういん)・光明寺(こうみょうじ)の三寺院と慈光院に付属する香取宮の神主作左衛門の連名で、関宿藩主に提出されました。裏書に書かれた相馬小次郎領分七十四年目が元禄十一年(一六九八)に当たるとすると、初年度は寛永二年(一六二五)になります。相馬小次郎が、寛永二年からこの地を知行したことになります。そして、元禄十一年三月、関宿藩牧野成春(なりはる)に弓田村は引き渡されました。
 馬立村については、寛永十年(一六三三)十月の「下総国幸嶋郡馬立村田方御縄水帳」(古谷文彦家文書)に、天羽七右衛門・谷上忠左衛門の証人署名があります。この谷上忠左衛門は相馬氏の代官なので、馬立村も知行地だったことが判ります。この弓馬田地区は、猿島台地上に位置し河川・溜池などの水源がほとんどない乾燥地帯で、畑地が水田よりはるかに多い痩せた土地でした。
 近くにある国王神社(坂東市岩井)の由緒沿革には、「相馬小次郎当社を厚く崇敬し、毎年奉幣の誠を捧げた、元文年間絶える」とあります。この奉納は戦国時代から継承されていましたが、元文年間(一七三六~一七四一)、貞胤の四代あとの矩胤の代で奉納が絶えてしまったようですが、この地は古くから相馬氏ゆかりの地でした。
 貞胤は寛永十年二月七日に新恩二百石を賜り、合わせて千二百石を知行することになりました。この加増は将軍家光の旗本
救済策であって、御書院番衆・御小姓組衆・御番衆の千石以下に一律に与えられました。家光はこの頃社会問題になりつつあった
旗本の貧窮と、併せて軍事力の強化に当たった訳です。
 この加増地は印旛郡瀧村(印西市滝)でした。
同年九月三日に代官谷上忠左衛門と谷上和家の連署で、瀧村の久兵衛を肝煎きもいり代官に任命しています(「瀧村肝煎代官任命状」/『房総古文書』)。
さらに十九年後の慶安五年(一六五二)の瀧村本田新田帳/『五十風敏夫家文書』に、谷上忠左衛門の証人署名があります。これによれば、本田十町二反余・新田七町八反余で新田開発の成果が著しいです。『元禄郷帳』では二三〇石です。
 
承応三年(一六五四)、この瀧村の瀧水寺(りゅうすいじ)に、新知行者の貞胤は灯明代として田畑を寄進しました。
  「   奉寄進
   一 下総国印旛郡印西庄瀧村之内
      田 壱反弐畝弐拾四歩
      畠 三畝拾歩
    右者、同所瀧村薬師江為灯明代奉寄進状、如件
        承応三甲午年冬十一月   相馬小次郎平貞胤 敬白(花押)
     瀧村薬師別当
      瀧水寺                            」
               (「房総古文書」/『本埜村史史料集近世編四』)
 

瀧水寺山門(印西市滝)

 貞胤は明暦二年(一六五六)八月晦日没。義父政胤が没した三ケ月後でした。戒名は大照院殿月庵宗明大居士。牛込長延(ちょうえん)寺(東京都新宿区長延寺町)に葬られました。その後、長延寺は廃寺となり、いまは僅かに町名として残されています。相馬氏で長延寺に葬られたのは貞胤だけです。