第六代相馬要胤(よしたね)(一六三一~一六九〇)

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 小平次郎、小次郎、母は某氏、明暦二年(一六五六)二月二十一日遺跡を継ぐ、二十二日はじめて厳有院(げんゆういん)(四代将軍徳川家綱)まみえたてまつり、三年十月十日大番となる、元禄三年(一六九〇)三月二十八日死す、年六十。法名郎忠、牛込の松源寺に葬る、後代々葬地とす、妻は黒澤杢之助定幸が養女、一妹に筧新五右衛門正興が妻、二妹に兄要胤が養女(『寛政譜』)。
 要胤の生まれは、寛永八年(一六三一)。父と同じ様に、瀧水寺に田畑を寄進しています(「房総古文書」/『本埜村史資料集近世編四』)。ただし、原文では昌胤と記しています。あるいはこの頃、昌胤を名乗っていたかは不詳です。
 この二つの寄進状は、『利根川図志』にも紹介されています。
「雲林山瀧水寺、瀧村にあり。本尊薬師如来、仁明(にんみょう)天皇の御願所、承和年中(八三四~四七)の建立、門の仁王運慶(うんけい)の作といふ、国司藤原朝臣手状を蔵す、又、承応三年相馬小次郎平貞胤の寄付状、明暦四年同昌胤の寄付状あり。また、古鐘あり、建武五年(一三三八)八月八日といえり」。瀧水寺の山門(P.211)は、千葉県指定文化財です。