相馬要胤の墓(左)と信胤の墓(右)
海禅寺(守谷市高野)
相馬信胤の墓
相馬要胤の墓
「壽泉院殿清岸妙涌大姉」は信胤の奥方でしょう。墓石に「親王四十代後裔」とありますが、親王を自称した平将門から数えて信胤は四十代目に当たります。笠の部分に将門も使用した「つなぎ馬」の家紋があります。この信胤の墓は関係者が造立した顕彰碑ではないでしょうか?想像できるのは、此の碑は家臣谷上勘兵衛の関係者が主家へのお詫びの印として建立したと考えます。何故なら信胤の墓の前に谷上勘兵衛永次(ながつぐ)の墓があります。もともと、谷上家の菩提寺は坂東市弓田(ゆだ)の正光院(しょうこういん)の筈です。戒名は「梅関玄雪居士」没したのは延宝四年(一六七六)十二月五日、先の信胤の代よりその前の要胤の時の代官だったのでしょう。