第七代相馬信胤(のぶたね)(一六五〇~一七一五)

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 初め昌胤(まさたね)、小平太、小次郎、実は小笠原源四郎貞信さだのぶが二男で、母は某子、要胤の婿養子となって、信胤と改名しました。
「寛文八年(一六六八)六月六日はじめて厳有院(げんゆういん)殿(四代将軍徳川家綱)に拝謁し、十二年(一六七二)五月二十六日大番に列し、元禄三年(一六九〇)遺蹟を継ぐ、九年七月五日新番にうつり、十二月二十二日、年ごろ怠りなく勤めしにより黄金三枚を給ふ、十二年(一六九九)四月十五日仰せをうけて伊賀、美濃、但馬の国々に至り論地を検す、宝永六年(一七〇九)御鉄炮玉薬(てつぽうたまぐすり)の奉行に転じ、七年二月二十日采地の土民(山崎村)愁訴せしにより、糺明をとげらるるの処、家臣谷上勘兵衛某が悪事露見し死刑に処せらる、これよりさき、信胤番士の列にあるのとき、勘兵衛某非分の事ありて土民等愁訴におよぶ、すでに番頭の沙汰として采地の事にあづからしむる事をとどむ。然るに彼が悪事をも糺さずして、猶事をつかさどらしるむの條、等閑なおざりの至りなりとて、小普請に貶(おと)し、采地(さいち)四百石を削られ、其の余り八百石を廩米(りんまい)(蔵米)にあらため出仕をとどめられ、八月十八日ゆるさる、正徳五年(一七一五)九月二十三日死す、年六十六、法名全徹、妻は要胤が養女」(『寛政譜』)。長いですが家臣の不祥事として原文のまま記しました。
信胤は、采地(知行地)については、一言も触れていません。よほど悔しかったのでしょう。勘兵衛の悪事露見で相馬氏は千二百石の知行取(知行地を支配、其の土地から米・麦の墓小物成(雑租)を収納し農民を夫役として使用できます)から八百石の蔵米取(くらまいどり)に格下げです。信胤は事件の六年後、六十六歳で亡くなっています。
ところで、この事件は徳川幕府の正式記録である「文松院(ぶんしょういん)殿御実記」(徳川家宣)/徳川実記第五編に「鉄砲玉薬奉行相馬小次郎信胤采地の民共、背き訴え出たるにより、その地を召し上げられ。三分一を減じて廩米八百俵になされ、小普請に入り逼塞を命ぜらる(日記)」と記録されています。
 信胤は元禄十一年(一六九八)、地方直(じかたなおし)の知行替で、弓田・馬立村から葛飾郡山崎村(野田市山崎)へ移ります。山崎村は、前任者の一色直興(なおよ)が三河国へ移り、信胤の時代は、幕府領と旗本建部氏・相馬氏の三給地であったといいます(平凡社地方資料センター編『千葉県の地名』)。山崎村は『元禄郷帳』では、一、一一五石余の大村です。その一村を三人で知行する難しさもあったことでしょう。
「地方直」は、元禄期に江戸幕府が行った知行再編成政策で、幕府財政が逼迫していました。綱吉政権は、幕府領の蔵米取の旗本を知行取へ変更して経費節減や、世襲代官の処罰を多数行い、さらに、元禄検地を行い石高の増加を図りました。
 この世情に便乗して、宝永六年(一七〇九)十一月、「谷上勘兵衛非道箇条」/「相馬小次郎知行所下総国葛飾郡山崎村訴訟人惣百姓」が出されました。この宝永年間の悪代官排斥は、綱吉逝去直後でしたが、綱吉の政策に相通じます。
 このニュースは奥州相馬氏が知る事になり、「尊胤朝臣御年譜」/『相馬藩世紀』には次のように記載されています。
「宝永七年(一七一〇)二月二十六日、御旗本相馬小次郎(信胤)殿、知行被召上被仰付次第、知行所之仕置不宣段達上聞、大箪笥(おおたんす)奉行御役被召放、知行千二百石御取上、御蔵米八百俵被下之屋鋪替、赤坂被仰付、此家ハ御当家之分流也、忠胤君の御代ヨリ訳之有り、御出入之無し」。注目は、あえて此の家は御当家の分流なりと言っていることと、寛永期の「相馬小次郎殿出入中絶之事」(『奥相秘鑑』)。中絶の始まりは、第十六代義胤公の時でしたが、ここでは第三代藩主忠胤の時からといっています。
また、信胤の役職は、大箪笥奉行(御鉄炮箪笥(てつぽうたんす)奉行カ)は誤りで、御鉄炮玉薬(てつぽうたまぐすり)奉行です。
 なお、信胤は屋敷替を命じられていて、次の保胤(やすたね)の時、享保九年(一七二四)十一月、相体替(あいたいがえ)にて、四谷大木戸前の永井丹後守たんごのかみの敷地内に屋敷を構えました。この地は文政二年(一八〇五)相対替にて田安殿の下屋敷に成っています。『地図で見る新宿区の移り変わり四谷編』という史料があり、「御府内場末往還其外沿革図書」に、四谷大木戸際、田安殿下屋敷麹屋敷横町辺の部に、絵図入りで詳細に記述されています。
 信胤は正徳五年(一七一五)に没し、牛込松源寺に葬られました。しかし、守谷の海禅寺にも墓が建立されています。
 信胤の知行の実態として、元禄六年(一六九三)の元禄検地に際し、信胤は代官谷上勘兵衛ほか名主二人・組頭十二人の村役人らに対し、証文を与えています(「名主・組頭の田畑を歩広に丈量すべき褒賞状」/『谷上一美家文書』)。名主・組頭の田畑を、手心を加え少し緩く縄を打つ意に解されます。さらに同九年、谷上勘兵衛に対して、弓田村の郷御蔵(ごみくら)山反別六貫二十七町歩を宛行しています(「新畑取立褒美につき山林宛行証文」/『谷上一美家文書』)。代官谷上勘兵衛の功罪は、『北下総地方史』に訴訟人山崎村惣百姓から非為を訴えられていますが、信胤は、領主の勤めを代官任せにしていたきらいがあります。これが、代官谷上勘兵衛の暴走を生んだのでしょう。