小源太、母は要胤の養女、生まれは、天和三年(一六八三)。宝永六年(一七〇九)四月六日大番となり、正徳五年(一七一五)十一月晦日遺跡を継ぐ、元文元年(一七三六)五月十四日死す。年五十四、法名良胤、妻は筧新三郎正直が女(『寛政譜』)。
享保十一年(一七二六)十一月、赤坂御門(東京都千代田区紀尾井町)前から四谷大木戸(東京都新宿区四谷四丁目)の傍らに移住させられました。相馬屋敷の前が甲州街道で、すぐ左手に四谷大木戸がありました。
この移転は、保胤が四谷大木戸の馬改番屋に就任したことを意味しています。
この四谷大木戸は元和二年(一六一六)、道の真ん中に木戸が設けられ、甲州街道・青梅街道の検問所で、道の左右は谷になっている一本道で、往還の人を糾問するに都合の良い場所でした。二十年後の寛永十三年に木戸の方は廃止され厩改番屋となり、これも寛政四年(一七九二)には廃止され木戸を取り払い石垣を築きました。この石垣が『江戸名所図会』に描かれています。同書には「ここの番屋は町の持ちなれども、突棒(つくぼう)・指股(さすまた)・錑(もじり)などを飾り置けり、是、往古、関のありし時の遺風(ならん)」と記しています。
現在、石垣は取り払われ、四谷四丁目木戸近くに記念碑が建てられています。
相馬家は始め赤坂御門近くにすんでいましたが、貞胤・要胤・信胤三代の屋敷が江戸絵図で確認できます。多分、赤坂御門の門番から四谷大木戸の番方に変わったのでしょう。