ここから内藤新宿まで、石畳が敷かれていました。石垣の向こう側は、玉川上水の「水番所」で、水の状態を調べていました。これから先は、木管や石管を通って江戸の市中の地下を流れていました。
手前右側の番所らしき構えが「相馬屋敷」です。ただし、同書が刊行された天保年間は、旗本相馬家の当主相馬将枝は「甲府勤番」で甲府に移住し、屋敷は田安家上屋敷になっていました。
江戸名所図会・四谷大木戸(出典 評論社)
当時の絵図で、相馬屋敷を見てみましょう(P.213参照)。
相馬家は、始め赤坂御門近くに住んでいましたが、貞胤(さだたね)・要胤(よしたね)・信胤(のぶたね)三代の屋敷が江戸絵図で確認できます。多分、赤坂御門の門番に就いていたと思います。享保十一年(一七二六)頃、保胤は四谷に引っ越ししていますので、四谷大木戸の番方に就いたと思われます。保胤・矩胤・是胤・敏胤(としたね)・繋胤(つなたね)・将枝(まさき)の六代です。
保胤は元文元年(一七三六)没し、牛込松源寺に葬られています。