『江戸名所図会』

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 神田の名主だった斎藤幸雄・幸孝・幸成の三代の編集と、町絵師長谷川雪旦(せつたん)の描いた、江戸及び近在の名所案内書です。二十冊に及ぶ大作で、天保五年(一八三四)に十冊、七年にもう十冊出版されました。同書に描かれている四谷大木戸は、寛政四年(一七九二)に廃止されています。大木戸とは、江戸城下町の入口という意味があります。同書に、両側に迫った石垣の手前が四谷で、向こう側が内藤新宿です。
 ここから内藤新宿まで、石畳が敷かれていました。石垣の向こう側は、玉川上水の「水番所」で、水の状態を調べていました。これから先は、木管や石管を通って江戸の市中の地下を流れていました。
 手前右側の番所らしき構えが「相馬屋敷」です。ただし、同書が刊行された天保年間は、旗本相馬家の当主相馬将枝は「甲府勤番」で甲府に移住し、屋敷は田安家上屋敷になっていました。

江戸名所図会・四谷大木戸(出典 評論社)

当時の絵図で、相馬屋敷を見てみましょう(P.213参照)。
 相馬家は、始め赤坂御門近くに住んでいましたが、貞胤(さだたね)・要胤(よしたね)・信胤(のぶたね)三代の屋敷が江戸絵図で確認できます。多分、赤坂御門の門番に就いていたと思います。享保十一年(一七二六)頃、保胤は四谷に引っ越ししていますので、四谷大木戸の番方に就いたと思われます。保胤・矩胤・是胤・敏胤(としたね)・繋胤(つなたね)・将枝(まさき)の六代です。
 保胤は元文元年(一七三六)没し、牛込松源寺に葬られています。