小太郎、左衛門、左近、母は筧新三郎正直が女、享保十年(一七二五)七月朔日有徳院(うとくいん)(八代将軍徳川吉宗)に拝謁し、元文元年(一七三八)八月二日遺跡(蔵米八〇〇俵)を継ぐ、十二月二十三日大番に列し、延享元年(一七四四)十二月十二日新番にうつり、宝暦五年(一七五五)十二月二十七日新番を辞し、明和五年(一七六八)三月八日大番に復す、安永四年(一七七五)八月二十二日大番を辞し、天明六年(一七八六)九月二十三日死す、年七十七、法名道機(『寛政譜』)。なお、利胤の名は、海禅寺の「旗本相馬氏の位牌」から採りました。
新番とは、家光の代に設置され、任務は大番に準じる。宝暦年中(一七五一~六三)、矩胤は妙見八幡社(取手市寺田)に対し、般若心経を寄進していました(『改定増補守谷志』)。
享保年間(一七一六~一七三五)奥州相馬氏が海禅寺を何回か訪れています。『相馬藩世紀』の記事からいくつかご紹介します。
「享保十三年(一七二八)二月、物頭の稲垣平右衛門が代参しています。将門八〇〇年忌未満、法事執行のために、七代藩主相馬尊胤公ほか昌胤・徳胤・主膳夫妻から白銀十数枚が寄進されました。」
「享保十七年(一七三二)十月、将門公の御堂修復、十四日正遷宮、江戸詰合大越四郎兵衛代参、御初尾ほか白銀・金子など寄進、さらに、享保十八年(一七三三)五月十二日、太守(第七代中村藩主相馬尊胤)江戸御発駕、この節、海禅寺に宿泊して、将門堂へ御参詣しました。金鑭(きんらん)御戸牒(とちょう)を寄進しました。」
「享保二十一年(一七三六)相馬小太郎(矩胤)殿は、始め桜田屋鋪へ御見舞、御用人本山仁左衛門に仰付らる、御家の御分流と雖も、御先代より中絶、亡父小源太(保胤)殿跡式相続の由にて入来、大番組八百俵の分限、翌日、一応の御礼、御使者を以って相達せらる」。矩胤としては、父祖以来の絶交関係を修復したい気持ちがあったのか。これ以降、少し改善されたようです。
「元文四年(一七三九)二月、平親王将門八百年忌、於いて江戸神田明神の社内、二月朔日より三月晦日迄開帳、最前社司、この旨を演達と雖も、御家より御通達これ無し、」
「元文五年(一七四〇)十二月、総州国王大明神の縁起、他家より到来、去る歳未二月、於江戸神田明神の社地、下総国猿島郡岩井庄国王神社開帳の儀、社人飯塚石見奉公訟相済候段、此方御式台へ参上御届申上、縁起持参、奏者口上取請、縁起等及ばず一覧相戻し、開帳中御代参も遣されず。一向御かまえこれ無く、相馬小次郎殿より家の幕等え相出し、神前錺(かざり)候由、相聞へ候、右の縁起か御家の縁起に、悉く相違審(いぶ)かし、国王大明神は平親王将門の霊社、此年正當八百年忌、これにより開帳願い奉る、」神田明神(東京都千代田区神田)に於いて、国王神社(坂東市岩井)の将門八百年忌の御開帳に際して、翌年、社司から奥州相馬氏は説明を受けましたが、持参した縁起が当家の縁起と相違するとして相手にしてくれなかった様です。奥州相馬氏は、守谷の海禅寺に将門堂を建立するなど、熱心な信奉者です。将門八百年忌はどうゆう事なのでしょう。やはり、神田明神は下総相馬氏が仕切っているので遠慮したのでしょうか。
この矩胤の時、弓田村の金右衛門から、「相馬小次郎家を地方知行にされたき願書」が出されましたが、幕府は当然、相手にしてくれませんでした。