左兵衛、母は某氏、天明六年(一七八六)十一月七日遺跡を継ぐ、時に四十八歳稟米八百俵、十二月二十二日はじめて浚明院(しゅんみょういん)殿(十代将軍徳川家治)にまみえたてまつる、妻は中村忠左衛門利恭が娘、妹は一橋の家臣猪飼三郎左衛門正倫が妻、弟の胤勝は一橋中納言治済(はるなり)卿につかふ(『寛政譜』)。十代将軍家治は、天明六年(一七八六)八月二十五日に逝去していますので、御目見は、同八月以前と思います。 是胤に関しては、『寛政呈書万石以下御目見以上国字分名集』(国会図書館蔵)に収録されています。
「相馬左兵衛、禄高八百俵、本国下総、本姓平良将流、勤事時台廟(秀忠)、家紋維馬・丸の内三葉の実、年齢六十一歳、役職小普請渡辺一番、屋敷四谷大木戸」とあります。この書で確認できることは、父矩胤が大番に復帰したのにも関わらず、是胤は、小普請組で渡辺支配下に属していました。
「小普請」とは、就職待機組の閑職で非役でした。小普請になると、規定の税金として、小普請金を払わされました。四谷大木戸が寛政四年に廃止されたので、大番職を解任されたと思われます。また、『寛政呈書(かんせいていしょ)』が発行された寛政十一年(一七九九)時点で、是胤は六十一歳ということから、生まれは元文四年(一七三九)です。
家紋の丸の内三葉の実とは、「丸に三葉の実」と思われますが、この紋をどうして使いはじめたかは不詳です。多分、「九曜紋」は大名の奥州相馬氏も使っていますので、遠慮して替紋として採用したとも考えられます。
是胤の兄弟は、妹は一橋の家臣猪飼三郎左衛門正倫が妻、弟の胤勝(たねかつ)は、一橋中納言治済卿に仕えました。一橋家と交流が深かったと思われます。その子孫と思われます相馬翁輔・鉦吉成人後、胤富兄弟は上野彰義隊に入隊しています(『彰義隊戦史』)。相馬翁輔は、慶応四年(一八六八)三月、新政府側の酒寄源内に結城城の獄中で殺され(『古河市史通史編』)、翁輔は彰義隊最初の戦死者とされています。是胤は『寛政譜』編纂(へんさん)の原稿になる「相馬家系図」を提出しています。享和四年(一八〇四)正月二十四日、六十六歳で没します。十九世紀初頭の江戸後期は、「化政文化」と呼んでいます。人情を描いた文学、世相を風刺した狂歌や和歌・俳句が盛んになり、教育では藩校・寺小屋が普及しました。十返舎一九・滝沢馬琴・小林一茶などが登場しています。