『耳袋』「相馬家の家風非常の事」(根岸鎮衛(やすもり)著文化六年(一八〇九)刊行)

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 「四ツ谷大木戸に、相馬小太郎【是胤(これたね)、天明六年家督、廩米八百俵】とて食禄七百石ほどの御旗本あり、相馬将門の嫡孫にて、諸侯なる相馬因幡守【祥胤(よしたね)、相馬中村城主、六万石】よりは却って本家の由、これにより因幡守家とは不和にて、今は通路もせざる由、神田明神にては神縁とて社家社人も甚だ尊崇して、年々に祭礼の節は代々まかり越し、ことなる饗応をなしけるとなり。
 先代左衛門は異人にてありしが、当主はさもなきよし、かの家に奇なる家風あり。毎年正月十一日には、主人麻上下を着し、嫡子はその脇に並び、酒の役人、墨付役人というあり。その日門前を通る者男女と無く屋敷内へ呼び入れ、豆腐里いも牛蒡人参などいえる正月ようの煮物をこしらえ、右を肴に酒を飲ませ、さてあとにて額又は手など、惣身の内へ墨を付ける事家法なり。近隣の者も今はその事知りて、いかがと思う者はその屋敷前を通らず、当時その節争論の事もなく済み来たるよし。予の一族なる者、相支配の世話取扱いをなして正月十一日にかの家へ到りて、まのあたりその式を見たりしを語りぬ。」
 本文中に、是胤とありますが、文化六年には亡くなっていますので、次の敏胤でしょう。家例の元祖については触れていませんが、本文中にある「先代左衛門(矩胤)は異人にてありしが」をヒントに、この家例をはじめたのは矩胤と思われます。矩胤・是胤・敏胤・繋胤と、四代に亘って吉例を継続していたことになります。