遊歴雑記 第三「相馬家の嘉例の墨塗」

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 「四谷大木戸片町北側、相馬左近(繫胤)屋敷は、田安侯の御構(おかまえ)に挟りて大御番を勤務して八百石を領せり。この家、桓武帝の子葛原(かずらはら)の親王の後胤、相馬の小次郎平将門が嫡々の正流にして、相馬弾正少弼(祥胤(よしたね))たりしけれども、弾正少弼の家は領六万石を以て、左近家よりは早く先達して御当地へ随従し、御慈悲を仰ぎ奉るにより、領し来れる六万石相違なく賜りぬ。又相馬左近家は将門の嫡流正統やあると、公の御尋ねによりて所領八百石を持て遅く、御当家へ随従し勤仕しけり、是は先祖将門は朝敵なるが故に、世上をはばかり公儀を恐れ、人皇六十一代朱雀院(すざくいん)の御宇天慶三庚子年将門亡び翌辛の丑年、純友(すみとも)(藤原)誅に伏してより、人皇百八代後陽成院(ごようぜいいん)の御宇慶長八癸卯年神君(徳川家康)御代しろし召、左近先祖を召出し賜ふまで、その間六百六十八年、代々己が領地に潜み隠れて居たりしを、神祖の厚き御慈愛によって、所領そのままに下だし置かれ、剰(あまつさ)え、御旗本に加えさせ賜ひぬとなん、この故に、血脈家系の伝書をはじめ、将門が武具馬具の類、若干当相馬家に所持す、凡そ天慶三庚子より文化十一年甲戌年に至りて八百八十一年に及ぶ、勇々しき家柄にこそ。(中略)例年正月十五日家例として門前を通る往来の人を呼び入れ、酒を振舞い飽きるまで無理強いして、その者がもはや飲みがたしというのを合図に、兼ねて用意し置きたる羅蔔(らふく)(大根)の切口を油墨に浸し、酒飲たる男女の額に押して、門前へ突出し帰しむ。いつ頃より仕来りし事にや、是を相馬左近が家の吉例として、今に違はざる事昔の如し。」
 それにしても江戸時代将門人気は凄い。やはり、時の権力者に屈しなかった義侠心が江戸庶民の間で共感を呼んだのでしょう。
 将門を祀る神社・塚は、東京都内だけでも数多くあります。その中でも代表的な首塚が、江戸城大手門の傍ら(大手町一丁目)に、胴は神田明神に祭神として祀られています。
 そのほか、鳥越神社(東京都台東区鳥越)・平河天満宮(東京都千代田区平河町)など七つの遺蹟があり、宮本健次氏(『江戸の都市計画』)によれば家康の信頼が深い天海(てんかい)によって、意図的に五街道の出入り口に配置され、将門は「江戸の地霊」となって、江戸に侵入する悪鬼を封じたといいます。また、根岸鎮衛・十方庵敬順は江戸時代の知識人らしく、旗本相馬氏が相馬家の本家と見抜いています。相馬家は、武骨一点張りの家柄と想いしや、ユーモア溢れる機知に富んだ人柄が窺い知れます。この二冊の読本(よみほん)で、下総相馬氏が将門の直系子孫を自称した、面目躍如たるものがあります。