第十三代相馬将枝(まさき)(?~一八四一)

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将枝の名は、同じく位牌から確認しています。相馬氏の通字である胤を用いないのが、一風変わっています。文政十年(一八二七)に刊行された『国字分名集』(著者名不詳)に、「相馬邦三郎、禄高八百俵、家紋維馬、屋敷甲府住」とあります。また同じく文政十年頃の『幕士録』(旧三田村蔦魚翁の蔵本)に、『相馬佐兵衛、禄高八百俵、屋敷四谷大木戸』とありますが、左兵衛は是胤の仮名なので、旧聞を記しただけです。さらに、天保九年(一八三四)頃の『旗本姓名高寄』(国会図書館蔵)に、「相馬金三郎、禄高八百石、屋敷甲府」とあります。将枝の仮名は、邦三郎、または金三郎。将枝は、文政二年父繋胤の遺跡を継ぎ、文政三年(一八二〇)五月には、四谷大木戸の屋敷を田安殿に相対替(あいたいがえ)で明け渡しています(『御府内場末往還其外沿革図書』)。田安殿下屋敷は、宝暦六年(一七五六)四谷屋敷を構えました。相馬屋敷より後に移り住んだことになります。
 将枝は、小普請組、松平石見守の配下となり文政三年(一八二〇)二月小普請の衆、甲府勝手小普請仰せ付けられ、甲府山手松平相模守支配に転属になりました。将枝は当時の甲府勤番士の中では最も高禄で、甲府での屋敷は、甲府城から最も近い一角(甲府市北口一丁目)を与えられていました(柴田聡司氏HP『江戸時代の下総相馬氏』)。
 将枝には、甲府在勤の間に、嫡子祚胤が誕生しました。天保十二年(一八四一)九月十日没しています。