<相馬左衛門>
「高八百俵、本国下総、生国甲斐、拝領屋鋪無く御座候、当分、小日向水道橋、小普請矢島□大夫の拝領屋敷の内、借地住宅仕り候、祖父相馬左近(繋胤)死、一生小普請。父相馬邦三郎(将枝)死、新御番、相勤め申し候、実子(祚胤)惣領、天保十二年(一八四一)十二月二十七日、父跡式下置かれ、小普請」(『江戸幕臣人名事典』/新人物往来社)。
甲府から戻った左衛門祚胤には、四谷大木戸の屋敷は既に無く、しかたなく、同僚の小普請組の矢島氏の、小向日(こひなた)水道橋にある拝領屋敷の長屋に仮住まいしました。その後、祚胤は牛込若宮に屋敷を拝領しています。
嘉永四年(一八五一)版の『江戸切絵図』に、「相馬左門」、安政四年(一八五七)改版に、「相馬左衛門」屋敷が掲載されています。安政六年(一八五九)改正の『旗本いろは分』(著者名不明)に、「相馬左門、禄高八百俵、屋敷牛込若宮」とあります。
相馬祚胤屋敷(尾張屋版江戸切絵図)
嘉永四年「市ヶ谷牛込絵図」
この牛込若宮は、牛込御門を出た神楽坂の左手に位置し、屋敷は若宮八幡宮と光照院の間にあって相馬氏の菩提寺である松源寺も近くにありました。光照院は、先住の牛込氏の城跡といわれる高台にあり、ここからの眺めは絶景だったそうです。
近くの若宮八幡宮(新宿区若宮町)は、源頼朝が奥州征伐時、鶴ガ岡の八幡宮を移し奉るといいます。
明治政府の官僚となった人は、所属藩の立場を超越せねばならなかったのです。かっての仲間を切り捨てるという秩禄処分(ちつろくしょぶん)事業(家禄・賞典録の支給廃止)を遂行しなければなりませんでした。
明治九年(一八七六)八月、旧来之家禄支給にかえて金禄公債(きんろくこうさい)(低利の公債)が交付されました。旧家臣団である士族の窮状とは対照的に大名華族が高収入を保障されたのは明治二年の「版籍奉還(はんせきほうかん)」に際して、知藩事の家禄が一律に現石(げんせき)(藩の収入)の1/10と定められたためです。それまで家臣とともに質素な生活を余儀なくされてきた大名の多くが、急に裕福な生活をするように変わったのは、版籍奉還を画期としてでした。
さらに、戊辰戦争・維新の際の功労者への恩賞としての賞典禄でした。賞典禄を多く入手した薩長土肥といった雄藩の旧大名家が大資産家として名を連ねています。
相馬家も貧乏だったらしく、士族とはいえ、借家住まいで、養子を貰っていました。小田原藩士だった相馬胤盈氏は伝来の家系図を旧知の常陸國相馬郡下高井村の広瀬普一氏に売却しています。明治五年(一八七二)十一月、相馬胤正が東京府へ提出した家禄書の写しを次ページに提示します。発行は浜松県で、一俵にどれだけの米を詰めるかは、各地で違いがあります。幕府は、一俵三斗五升入で、一石=一〇斗ですから、支給は百俵で三十五石とみなして調整しました。旧禄八百俵=二八〇石ですので、単純計算しますと、12斗6升/280=四・五%しか貰えません。これでは、士族の俸禄だけでは生活できません。
明治5年 相馬胤正の浜松県の家禄書(東京都公文書館所蔵)
翌六年三月、「士族の家禄奉還者に対し、三ケ年分の禄高を合計して下賜することを布達」があり、士族を辞める人が殺到しています。
祚胤も、無事に明治維新を迎えています。
明治に入りますと、祚胤は小三郎を名乗り、養子に相馬胤正を迎えています。その胤正は浜松県の士族に所属していたらしく、明治五年(一八七二)、浜松県から「旧禄八百俵、家禄玄米十二石六斗」支給されています。胤正は、駿河・遠州七十万石の新領主徳川家達に随い新天地に移住したのでしょうか。
明治六年(一八七三)十月、相馬小三郎祚胤は、養子の胤正と共に、東京府知事大久保一翁(いちおう)(忠寛)殿宛、再度の願書を提出しています。士族が民籍を欲しがった訳は、この俸禄が極端に減らされたからです。この胤正も明治六年には東京府に戻り、次ページの願書になる訳です。胤正は相馬勘次郎を養子に迎え、勘次郎は、同八年民籍を得ています。
祚胤以降の略系図
最後に、祚胤ないし胤正の直筆の書状を掲げます。達筆ぶりをご覧ください。
明治6年 相馬小三郎祚胤・胤正連署書状(東京都公文書館所蔵)
御当府士族
相馬胤正養父隠居
相馬小三郎相馬小三郎儀、先達而見込候儀茂御座候ニ付、
平民編入奉願候処、当節ニ□候而□不都合之儀茂
御座候間、見込替仕追而平民編入奉願度、(後略)
第四区五小区
神田同朋町拾七番地借店
杉本鉄次郎方同居
御当府士族
相馬胤正(胤正印)
明治六年十月三十一日
右胤正養父隠居
相馬小三郎(祚胤印)
東京府知事
大久保一翁殿
相馬左衛門>