③「相馬当家系図」(大阪市在住相馬氏所蔵)

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 私事ですが、この系図が公表されたのが、平成十五年(二〇〇三)開催の、大利根博物館と関宿城博物館共同企画展です。題して「平将門・史実と伝説の系譜」ですが、その前の同十四年に『常総戦国誌』を発刊したのですが、相馬胤純と胤祥を別人扱いしてしまいましたが実は同一人物です。訂正の無いまま今日に至り、お詫びします。歴史物を書く恐ろしさをつくづく思い知らされました。
相馬譜代家臣為頭者計(あたまたるものばかり)
  浮嶋大輔   佐津嶋兵衛   同兵庫介   岡部弥次郎
  同剛七郎   村岡五郎    同三郎四郎  高見左衛門
  同五郎    右四人信太慕跡来母卒後、剃髪退く
  千原太夫   信太救流罪責殺サル
已(かい)下連判者
   菅生越前守     寺田弾正左衛門吉次   筒戸小四郎胤文   寺田出雲守
   岩堀主馬首弘助   横瀬源太左衛門貞廣   大木駿河守胤清   木屋長門守満吉
   新木駿河守胤重   松井主税廣吉      横瀬伊勢守保廣   鮎川筑後守安勝
   横瀬弾正忠恒廣   安富齊朝直       佐賀掃部介整満   遊座右京亮廣直 お
   佐賀美濃守久次   泉勝坊光音       佐賀筑後守長弘
   天正九巳年(一五八一)高野山右連判之者共、只今諸大名へ罷リ出ル、下総相馬子孫之レ有リ候ハ御座候、
 この系図は、正徳四年(一七一四)の記事が最新ですので、胤貞と胤祥の間に空白に書かれていますので胤祥記載と思われます。あるいは、広瀬普一氏へ譲った大正時代の胤盈の清書かも知れません。高野山文書は小田原藩士相馬氏の古文書収集努力の成果です。この相馬家の「己下連判者」の名前は「相馬一家連名帳」の原本に相当するものかと思われます。
 「連名帳」の名付親の齋藤隆三博士は、広瀬晋一家と縁戚関係にあり、大坂市の相馬胤盈氏とも接触があったと思われます。