相馬胤永(たねなが)(一五五七~一六四〇)

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 胤永の嫡子である胤勝が初代の小田原藩士ですが、父の胤永から論を進めます。
胤永には三人の子があったようです(P.157参照)。嫡子の胤勝だけ子孫が小田原藩士となり、現代まで存続しています。次男の胤継(『北相馬郡志』では継胤)は実在が不明です。三男の胤正は①の系図に天正十年出生とあり、『相馬伝説集』に「胤永に三子あり、胤勝、胤継、胤正の裔(すえ)、伊賀保廣、尚留まりて本城にあり、徳川氏の世、姓を廣瀬と改め農に帰した子孫、廣瀬省一氏は其の裔(すえ)にて北條氏直よりの感状、其の他相馬家系図など所蔵されている」とありますので、系図の持主広瀬晋一氏が胤正の末裔(まつえい)に違いありません。伊賀保廣はP.172の「相馬一家連名帳」の横瀬伊勢守保廣でしょう。
 胤永の墓が、菩提寺の高源寺(取手市下高井)にあります。慕石は板碑型で、戒名は「實相院殿竺巖道仙居士」、俗名は刻まれていません。側面に募石建立に協力したのであろう二十九名の名字が石刻されています。往時の胤永の家臣で、帰農して高井村近隣に住いされた方々のようですが、今は、文字も風化され読みづらくなっています。

高井胤永の墓(取手市下高井 高源寺)