『左近・民部系図』に、「幼年ノ頃、松平左馬尉(さまのじょう)ノ肝煎(きもいり)ヲ以テ、大久保加州太守忠常(ただつね)ヘ仕ヘ奉ル、其ノ後、幕下ヲ退キ筑前黒田如水(じょすい)ヘ仕エ奉ル、如水ヲ立退キ亦忠常ヘ帰参ス、忠常公御逝去ノ後、大久保忠隣(ただちか)ヘ仕エ奉ル、忠隣公ヨリ日禅公(忠常の嫡子忠職(ただもと))幼年ノ時ヨリ仕エ奉ル、年七十五歳ニテ、肥州唐津ニ於テ卒ス」とあります。
この松平左馬尉は、騎西藩(埼玉県騎西町)二万石の城主、松平(松井)左近丞康重(やすしげ)を指していると思います。康重との接点は不明ですが、康重は先の「小田原合戦」の際、家康軍の先鋒となって胤永の守衛する宮城野口へ攻め込んで戦功を挙げていますので、戦場で敵味方となって相見(あいまみ)えたのかも知れません。
胤勝は松平康重の計らいで、大久保忠常に仕えました。その大久保家を辞し、筑前(博多)の黒田如水に仕え、そこも辞して、再び忠常の元に帰参しました。③の「相馬当家系図」P.235では、再就職先は松平筑前守長政としています。時期が明確では無いのですが、長政は如水の嫡子です。「関ヶ原合戦」時、長政は会津遠征軍に加わっておりますので不可です。あるいは、長政の遠征中の募集でしたら可能性はあります。如水は豊前国中津(中津市)の領内に、布告して軍勢を募集しました。一騎当たり銀三百匁、徒士の者には永楽銭一貫ずつを前金で払ったといいます。まさか、胤勝が誘われて九州まで遠征するとは思われませんが、帰参を許した忠常は寛容ですね。
大久保忠常は、忠隣の嫡子で、小田原藩六万五千石の初代藩主忠世(ただよ)の孫に当ります。胤勝は、幼年の頃忠常に仕えたとありますので、「小田原合戦」後ほどなく、松平康重の肝入で忠常の近習に加えられたと思われます。ちなみに天正十八年(一五九〇)時、胤勝はまだ十三歳ですので、父胤永の配慮でしょうか。慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原合戦」時、忠常は戦功で、慶長六年に騎西藩二万石を賜りました。慶長十二年、胤勝は再び忠常の許に帰参を許され、先知三百石下し置かれました。
その十一年後の慶長十六年(一六一一)十月、忠常は三十二歳の若さでこの世を去り、嫡子の忠職(ただもと)がわずか八歳で騎西藩主を継ぎました。胤勝は忠職の後見役である小田原藩主の大久保忠隣の命により、引き続き忠職に仕えることになりました。この間、祖父の忠隣は老中にして絶大なる権力を掌握していましたが、突然、改易に処せられました。
改易の理由は諸説ありますが、家康の近臣本多正信との確執が原因であるといわれます。
騎西城(埼玉県騎西町)
忠職は幼少ゆえ連座を免れ、封地で蟄居の身となりました。だが、家臣は自由であったようで、その間の元和八年(一六二二)の秋、胤勝は荒木村(我孫子市旧新木村)の相馬則胤(のりたね)を訪ねました。P.205の「相馬則胤覚書」にありますように、胤勝は旗本相馬家四代当主政胤から相馬家の御家伝書の写を頂きました。御家伝書一巻は系図と思われ、胤勝から③の「相馬当家系図」に活かされています。
蟄居から十一年後の寛永二年(一六二五)、大久保忠職は蟄居を許され、同九年(一六三二)正月には、加増三万石を受けて加納(かのう)藩(岐阜市)五万石の城主に栄転しました。胤勝も忠職に従い加納へ赴きました。御先手組頭(かしら)を御預かりしています。その後も忠職は出世を続け、明石藩(明石市)七万石、唐津藩(唐津市)八万三千石と転封しました。胤勝も忠職に従い、御先手組(おさきてぐみ)・御持弓組(おもちゆみぐみ)を預かっています。慶安五年(一六五二)唐津に於いて七十五歳で没しました。
明石城(明石市明石公園)
唐津城(唐津市東城内)