二代相馬胤将(たねまさ)(一六二〇~一六九〇)

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 元和六年(一六二〇)生まれ、生国江戸。胤勝の嫡子で通称七左衛門尉。父に従い十六歳で加納城主の大久保忠職の御小姓として仕えました。その後も明石・唐津と忠職の転封に、父と共に随いました。承応二年(一六五三)六拾石の加増あり、寛文五年(一六六五)御用人に昇格、同七年百石加増あり。寛文十年(一六七〇)四月、忠職が没し養子の忠朝(ただとも)が遺領を引き継いだので、胤将も引き続き忠朝に仕えました。この代替の際に作成されました「寛文十年大久保氏唐津時代順席帳」(神奈川県史資料編5近世2)に、「用人 四百七十石 相馬七左衛門」とあります「順席帳」は誤りで、正しくは四百六十石です。
 用人とはこの頃新設された席で、家老・年寄・番頭に次ぐ要職です。胤将は席次で、全家中二十四位に位置していました。その後、藩主の忠朝は延宝五年(一六七七)に老中に就任、翌年に佐倉へ転封、貞享三年(一六八六)には、十万三千石で小田原藩主に復帰しました。胤将は元禄三年(一六九〇)二月三日、七十一歳で没します。小田原市の浄土宗明星山(みょうじょうさん)常光寺(じょうこうじ)に墓があります。
墓石は板碑型で胤永と同じです。戒名は「相源院殿江外山月大居士」俗名相馬七左衛門胤将、家を継いだ胤貞が墓を建立しました。立派な戒名で院殿号を授与されています。次の胤貞以降は院号に戻ります、位号は居士です。

相馬胤将の墓(小田原市板橋 常光寺)


墓石正面