用人とはこの頃新設された席で、家老・年寄・番頭に次ぐ要職です。胤将は席次で、全家中二十四位に位置していました。その後、藩主の忠朝は延宝五年(一六七七)に老中に就任、翌年に佐倉へ転封、貞享三年(一六八六)には、十万三千石で小田原藩主に復帰しました。胤将は元禄三年(一六九〇)二月三日、七十一歳で没します。小田原市の浄土宗明星山(みょうじょうさん)常光寺(じょうこうじ)に墓があります。
墓石は板碑型で胤永と同じです。戒名は「相源院殿江外山月大居士」俗名相馬七左衛門胤将、家を継いだ胤貞が墓を建立しました。立派な戒名で院殿号を授与されています。次の胤貞以降は院号に戻ります、位号は居士です。
相馬胤将の墓(小田原市板橋 常光寺)
墓石正面