四代相馬胤祥(たねよし)(一六九七~一七六七)

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 元禄十年(一六九七)生まれ、生国相州小田原、初め胤純(たねずみ)、通称七左衛門、『先祖書』(村上春樹著「平将門」)に相馬民部とあり、民部を称す。父胤貞が没した元禄十六年(一七〇三)に七歳で跡式を継ぎました。正徳四年(一七一四)御番頭席に就任します(③『相馬当家系図』)。
 「享保九年(一七二四)小田原藩順席帳」(小田原市史史料編近世Ⅰ)に、「番頭高四百六十石相馬七左衛門胤純二十八」とあります。胤純は二十八歳の弱年にもかかわらず、席次は十四位で禄高は二十七番目です。
用人から番頭への破格の昇進は、名門江川家から入った胤貞が家格を押し上げたと推察できます。
この胤祥の家には、享保十二年(一七二七)二月五日付けで、ふるさと高井村の広瀬蔵主(ぞうす)から相馬七左衛門へ出した書状があります。宝暦七年(一七五七)正月十一日『下総国相馬郡上下高井村之者共官途帳(かんとちょう)』(大阪市の相馬氏所蔵)によれば、相馬七左衛門〈花押〉発給の官途帳で、「何之何某殿」として村人数十名の名が記載されています。お正月の余興かと思われますが、胤祥のユーモア溢れる、微笑ましい情景です。
 同年十月、折角、番頭席にありながら胤祥は「家中法度」に違反しました。『箱根御関所番頭手控』及び『吉岡手控』に「代御番之者、不調法之レ有リ、遠慮・閉門仰付ラレ候節モ差控候節、門ヲ建テ候事仰出ラレ候、相馬七左衛門格也、宝暦丑十月二十八日之有、尤モ被仰出帳ニ之有」、両書とも「被仰出帳(おおせいだされちょう)」を原本にしています。被仰出は、大目付・御側目付・目付を経由して小田原藩家中全体に示される基本法令です。胤祥は何らかの不調法を為し「遠慮」・「閉門」を命じられました。翌年、箱根関所に於いてある事件があり、検視役として御物頭相馬七左衛門が派遣されました。胤祥は「御物頭(おものがしら)」と呼ばれており、番頭から物頭格へ降格されていました。
 六年後の宝暦十四年(一七六四)には、朝鮮通信使の来聘がありました。この間の小田原藩の対応振りを『箱根御関所日記書抜』で見てみます。朝鮮通信使は徳川家治の第十代将軍就任を慶賀する外交使節団ですが、小田原藩としても藩領を通過する間、その一行の警護と宿舎手配・饗応を幕府から命じられています。一行といっても人数が半端ではないです。この年の通信使の人数は三百六十六人、さらに対馬藩から八百人位が随行するため、馬・駕篭を含めると、三千人位の規模だったといわれます。小田原藩は、箱根宿で一行を出迎えることになります。
 正月四日、胤祥は御鷹一行を出迎え、箱根宿で饗応しています。さらに、正月二十九日御馬一行、二月四日御荷物一行を饗応しています。
 胤祥は明和四年(一七六七)没しました。墓の所在は不明です。次の当主胤英の墓は小田原市浜町の浄土宗誓願寺(せいがんじ)です。同寺には八基の墓が一箇所に纏まって建立されています。中に奥方や子女の戒名も刻まれており、個人供養から家単位の家内供養に変化しています。相馬氏は、胤英・胤昌・胤吉・胤親・胤親後妻・胤則・胤鎮・胤明で、胤祥の墓は見つかりませんでした。特筆すべきは相馬胤英・胤則・胤親後妻・胤明の墓石裏面に「焼香 永久寺(えいきゅうじ)」と石刻されている事です。永久寺は、小田原市城山にあります臨済宗妙心寺派盛徳山永久寺と思われます。「焼香 永久寺」は、菩提寺を表していると思います。
 相馬家の菩提寺は、当時は三乗寺と推測されます。仮説ですが、相馬家は胤貞から胤祥の時代に宗派替えして浄土宗から臨済宗妙心寺派の永久寺へ墓を移したと考えます。誓願寺の住職のお話では、大正十三年(一九二三)九月一日の関東大震災で全焼し、過去帳など古い記録類が残っておらず不詳との事ですが、相馬家の墓は一箇所に集められていますので、そう推察しても良いと思います。

相馬氏の墓(小田原市浜町)

 誓願寺の縁起によりますと、昭和四年(一九二九)二月、隣寺三乗寺(さんじょうじ)と合併し、湘王山三乗院誓願寺と改称、寺の一部を常光寺へ移管しています。
 戊辰戦争の責を一身に負って切腹した小田原藩家老渡邊了叟(りょうそう)の墓が常光寺に在ります。渡邊家の墓碑には裏面に「焼香 三乗寺」とあります。また、もう一人の家老、岩瀬大江進(おおえのしん)は、「殿様の御謝罪万分の一にも相成り候はば、本懐至極、有り難くも在じ奉り候」との遺書を残して切腹しましたが、その顕彰碑がこの誓願寺に在ります。