仮名は小十郎、のち、七左衛門を称しました。「天明二年(一七八二)大久保氏分限帳」(『神奈川県史資料編5』)に「寄合高四百六十石相馬小十郎」とあります。禄高は二十番目、席次は七十九位です。胤昌の寄合席は胤祥の不調法が原因と見做します。家禄が変わらずに席次が急降下したのは、家中法度がいかに厳罰だったかを示しています。胤昌は胤祥と同じ「物頭」に就いていました。寛政九年(一七九七)には、「寺社奉行」を兼務していました。小田原藩は箱根町湯本より小田原市荻窪まで、早川を開削と隧道で、約七キロメートル引水する堰を計画しました。当時は湯本堰、現在では荻窪堰と言われている用水工事で、堰が通過する萬松院(ばんしょういん)(小田原市風祭(かざまつり))の住職を呼出し、協力を要請しました。住職が即答を避けたため、四月十二日、寺社奉行相馬小重郎(胤昌)は、再び住職を呼び出し、本堂復旧を条件に工事着工を申し渡しました(『江戸時代の小田原』)。小田原藩は、寛政十一年(一七九九)十二月、藩が荻窪堰の寺内通過について、風祭の満松院へ補償料を約束しています(小田原史史料編近世三)。この新堰は約六十町歩の畑地を水田化し、小田原藩の農地改革の模範となっています。
なお、文化二年(一八〇五)四月十六日項の『箱根御関所番頭手控』に、「相馬小十郎儀、加藤孫大夫嫡子出生以前の儀に候らえ共、嫡子の次に認める」と記されています。この家老家の加藤孫大夫と、相馬家は養子縁組をしています。ここで、小田原藩の「親類書」を検討します。