先祖書は、小田原藩主の大久保氏が、家臣に対してその先祖の事績を書かせたもので、各家臣は代々これを書き継いで、いつでも提出できるようにしていました。御番帳内という正式な家中として席を占めていた家に限られます。従って書き出しは前回分の直後から始まります。親類書は、当主のみが記します。範囲は父子・祖父母・従兄弟・甥で。養子の場合は養方の以上全てに及ぶ。ただし母・姉妹・娘などの女性はまったく無視されています。同書は、小田原市立図書館より、全四巻が発行されています。
天保十三年(一八四二)版親類書
○加藤内膳(加藤孫大夫カ)*孫大夫は、加藤家の当主が代々称しています。
嫡子 主税介、養忰(ようすい)実ハ甥 相馬七左衛門(胤吉)嫡孫 百弥(主税介の嫡子)、孫 相馬小十郎(相馬七左衛門忰)胤親(たねちか)、孫 山中湊(みなと)、孫相馬清四郎(相馬七左衛門三男)胤明(たねあき)。
以上から、文化二年(一八〇五)四月頃、内膳は嫡子に恵まれず、末期養子を避けるため、あえて胤吉を「嫡子の次」に指名したと思われます。ちなみに嫡子の主税介は、文化二年九月十五日生まれです。この話の前提として、胤吉の父胤昌は、家老家加藤内膳の姉妹を嫁にしていたと思われ親戚関係にありました。そうでなければ、家格が違い過ぎます。
胤昌の没年は文政四年(一八二一)六月二十九日です、墓は誓願寺で奥方と一緒に葬られています。戒名は「鶴林院安道泰然居士」俗名相馬七左衛門胤昌、奥方の戒名は「誠心院法誉妙薫大姉」、没年は文化三年(一八〇六)六月二十九日、墓石は胤昌自身が建てました。