仮名は源左衛門、のちに七左衛門。「文政八年(一八二五)小田原藩家中分限帳」(『小田原市史 史料編 近世Ⅰ』)に、「寄合高四百六十石 相馬源左衛門」とあります。また、「天保年間(一八四〇頃)小田原領明細調」(『二宮尊徳全集 第十四巻』)に、「寄合高四百六十石 相馬七左衛門」とあります。この頃、胤吉は七左衛門を名乗っていました。
胤吉は、加藤内膳の養忰、実は甥になっております。胤吉は、小田原藩の「弓道師範」を勤め、弘化二年には「鎗奉行」に就きます。嘉永元年(一八四八)六月二十三日病死、墓は誓願寺にあり、奥方と一緒に葬られています。戒名は「顕弓院練心宗通居士」、弓道師範に相応しい法号です。奥方の戒名は「隋信院清室妙浄大姉」、墓は家を継ぎました胤明が建立しています。