次男の胤則(たねのり)は父胤吉や胤親に先立って早世しています。三男の湊(みなと)は山中家へ養子となって家を出ています。胤明は、天保八年(一八六二)甲州流軍学の免許を得て藩主忠真(ただざね)から金三百疋を下し置かれました。金三百文は銭三貫文に相当し、現在の三十万円位と思われます。嘉永元年(一八四八)、父胤吉病死後の跡目を継いで四百六十石の寄合席に就きます。同五年(一八五二)に「御先筒頭(おさきつつがしら)」兼「箱根関所の伴頭(ばんがしら)(番頭)に就任しました。
翌、嘉永六年(一八五三)六月、ペリーの黒船四隻が伊豆半島沖に姿を現し、韮山の代官江川英竜(ひでたつ)の要請を受けて、小田原藩はすぐに陸と海から、下田表に援兵を差し向けました。御先筒頭の胤明も下田に向かいましたが、異国船が出航したため、途中から引き返しました。同年十月二十一日、胤明は家中法度違反を仕出かし、御先筒頭を御免になり、「遠慮」を命じられました。その三年後の安政三年(一八五六)四月、御先筒頭・箱根関所伴頭に再び就任しました。「安政五戊午歳(一八五八)小田原藩順席帳」(小田原有信会発行)に、「寄合 高四百六十石 御先筒頭・箱根御関所伴頭相馬清四郎(せいしろう) 当巳(安政四年)四拾弐歳」と書かれています。
小田原藩順席帳(『安政五年順席帳』)